二方郡
ふたかたぐん
「和名抄」にみえ、同書東急本国郡部では「布太加太」、同書名博本や「拾芥抄」ではフタカタと訓じる。但馬国の北西部を占め、東は美含郡、南東は七美郡、南西は因幡国八上郡、西は同国法美郡・巨濃郡に接し、北は海(日本海)に面していた。郡南部を中国山地が走り、同山地から派生する支脈が東部では美含・七美との郡境、西部では因幡との国境をなす。ほぼ現在の温泉町、浜坂町(久斗山地区を除く)と村岡町柤岡地区に相当する。郡域は南北にやや長く、ほとんどが山地である。扇ノ山(一三〇九・九メートル)や仏頂山を水源とし、照来川・春来川・熊谷川・田君川・久斗川などの支流を集める岸田川が南から北へ貫流し、日本海に注ぐ。郡北部の西側は諸寄川・結川の流域だが、ともに流域面積は狭小である。
〔古代〕
郡名の初見は己亥年(六九九)の年紀をもつ藤原宮跡出土木簡の「二方評波多里」である。なお「国造本紀」には、志賀高穴穂朝(成務朝)の御世に出雲国造の同祖遷狛一奴命(「本紀考」は宇迦都久奴命の錯誤とする)の孫美尼布命を二方国造に定めたとある。管郷は「和名抄」東急本では久斗・二方・田公・大庭・八太・陽口・刀伎・熊野・温泉の九郷、同書高山寺本では陽口郷を欠き八郷であるが、いずれにしても養老令の基準では中郡である。郡家は郡治の地名がある現温泉町井土のあたりに所在したとする説が有力で、同所一帯は八太郷の郷域であったと推定される。承安四年(一一七四)九月九日の後白河院庁下文案(高山寺文書)に温泉庄四至のうちとして「拾伍条参里捌坪字天谷」とあり、また縄手などの条里関係の地名も残るが、遺構は確認されていない。山陰道は七美郡境の春来峠を越えて当郡に入り、春来川沿いに下って面治駅(井土に所在比定される)に至り、今度は岸田川をさかのぼり、国境の蒲生峠を越えて因幡国に向かっていたと考えられる。山陰道の京―但馬間は内陸部を通るため悪路が多いが、二つの峠越えでつながれた郡内の道筋も険しいものであったろう。「延喜式」神名帳に登載される神社は二方・大家・大歳・面沼・須加の五座(いずれも小社)で、但馬諸郡中最小である。貞観一〇年(八六八)閏一二月二一日に神階が従五位下に昇叙した「但馬正六位上菅神」(三代実録)は須加神社に相当するとする説がある。寺院では井土廃寺が奈良時代の創建と考えられ、浜坂町清富の相応峰寺は行基による開創との寺伝をもち、中央の仏工の手になると思われる平安時代の十一面観音立像を伝えている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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