日本歴史地名大系 「五箇庄」の解説
五箇庄
ごかのしよう
九州山脈の高峰が連なる泉村東部に位置する。五箇庄の地名は
〔歴史〕
口碑・伝説以外に文献的に現在知りうる資料は、仁田尾村左座家蔵「左座家由緒伝録」、久連子村平盛家蔵「由来書」などの系図を中心とした伝承記録で、それも五箇庄は火災が多いため(焼畑農業による失火など)、ほとんどが明治以降の写本である。これらの系図のなかで、明応―永正年間(一四九二―一五二一)に緒方・左座両氏とも阿蘇氏に仕えて
五箇庄または仁田尾以下の村名が史料にみえるのは江戸時代以降で、寛永一三年(一六三六)七月二五日付の御奉行奉書抄出(永青文庫蔵)に「五ケ庄之者」が飢えのため米拝領を願出たとみえる。また同一五年六月二三日の御奉行所日記抄出(同文庫蔵)に「五ケ庄五人之内、椎原村大内蔵、呉子村将監、雑座村権丞、もみのき村長介、萩村儀大夫」の名がみえ、「にく之皮五枚、鹿皮一枚」を献上している。慶安元年(一六四八)三月晦日「五ケ庄五人之者、為御礼罷出候処、如例塩二十五俵、御樽五ツ、するめ一折十連被遣、御花畑ニ而御振舞云々」(「真源院新撰御家譜原本」同文庫蔵)とみえ、寛文五年(一六六五)六月二三日には五ヶ庄の者が初めて藩主細川綱利に謁している(「妙応院御家譜続編」同文庫蔵)。
五箇庄
ごかのしよう
現住吉区
文明三年(一四七一)閏八月、道金と智位の両名は我孫子屋次郎の遺言にしたがって、その遺領「摂津国住吉郡五ケ庄内」に散在する田地一町九反七五歩を、京都大徳寺の塔頭の一つ養徳院に寄進した(同月二一日「道金・智位連署田地寄進状」「道金・智位連署起請文」大徳寺文書)。我孫子屋次郎は当時堺の豪商として知られた我孫子屋の一族であり、道金・智位もその同族とみられるが、次郎には妻子がなかったためかねて跡職の処理を道金・智位に依頼していたのである。本来、こうした寄進の際には、その土地の所有権を明示する本券類を添えるものであるが、我孫子屋次郎の場合は、文明二年に本券類を他所へ預けていて紛失していたので、養徳院へ寄進するにあたってその旨を明記し、田地目録を添えるようにということも遺言していた(同三年後八月一二日「道金・智位連署文書紛失状」同文書)。そこで道金は、その田地を次郎がいつ、どのような方法で入手したかまで詳細に注記した坪付注文を作成して、一〇月に養徳院へ差出した。その摂津五箇庄内我孫子屋次郎跡坪付注文(同文書)によると、次郎の私領一町九反七五歩は応永一六年(一四〇九)から永享八年(一四三六)にかけての二八年間に入手した一八ヵ所に散在する田畑から構成されている。
五箇庄
ごかのしよう
五箇庄
ごかのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報