五箇庄(読み)ごかのしよう

日本歴史地名大系 「五箇庄」の解説

五箇庄
ごかのしよう

[現在地名]泉村仁田尾・葉木・樅木・椎原・久連子

九州山脈の高峰が連なる泉村東部に位置する。五箇庄の地名は仁田尾にたお葉木はぎ樅木もみき椎原しいばる久連子くれこの五集落からなるためとする説、また古賀・古閑・空閑と同様に未開墾地をさすとの説もある。柳田国男は、五箇は多く山間の開墾困難な所につけられ、越中・越前・加賀・伊予・阿波・伊勢・筑前などの五箇は集落数とは無関係で、しかも平家伝承をもっていると指摘している。

〔歴史〕

口碑・伝説以外に文献的に現在知りうる資料は、仁田尾村左座家蔵「左座家由緒伝録」、久連子村平盛家蔵「由来書」などの系図を中心とした伝承記録で、それも五箇庄は火災が多いため(焼畑農業による失火など)、ほとんどが明治以降の写本である。これらの系図のなかで、明応―永正年間(一四九二―一五二一)に緒方・左座両氏とも阿蘇氏に仕えて砥用ともち(現下益城郡)方面に領地を与えられたとの箇条がある。これをある程度裏付けると思われる史料に、永正九年七月二〇日の阿蘇惟豊充行状写(阿蘇家文書)があり、小熊野おぐまの(現下益城郡豊野村)柿迫かきざこ村を祭主源衛門尉に充行っている。また同一〇年四月二一日惟豊は「下矢部之内金打八貫之中二貫」を祭主大蔵丞に充行っている(「阿蘇惟豊充行状写」同文書)。「下矢部」も当時は広い意味で砥用のうちであった。

五箇庄または仁田尾以下の村名が史料にみえるのは江戸時代以降で、寛永一三年(一六三六)七月二五日付の御奉行奉書抄出(永青文庫蔵)に「五ケ庄之者」が飢えのため米拝領を願出たとみえる。また同一五年六月二三日の御奉行所日記抄出(同文庫蔵)に「五ケ庄五人之内、椎原村大内蔵、呉子村将監、雑座村権丞、もみのき村長介、萩村儀大夫」の名がみえ、「にく之皮五枚、鹿皮一枚」を献上している。慶安元年(一六四八)三月晦日「五ケ庄五人之者、為御礼罷出候処、如例塩二十五俵、御樽五ツ、するめ一折十連被遣、御花畑ニ御振舞云々」(「真源院新撰御家譜原本」同文庫蔵)とみえ、寛文五年(一六六五)六月二三日には五ヶ庄の者が初めて藩主細川綱利に謁している(「妙応院御家譜続編」同文庫蔵)


五箇庄
ごかのしよう

現住吉区我孫子あびこ苅田かりた杉本すぎもと庭井にわいの一帯から堺市の浅香山あさかやま花田はなだ大豆塚まめづか付近までを含む地域に存在した庄園。五ヶ庄とも書いた。

文明三年(一四七一)閏八月、道金と智位の両名は我孫子屋次郎の遺言にしたがって、その遺領「摂津国住吉郡五ケ庄内」に散在する田地一町九反七五歩を、京都大徳寺の塔頭の一つ養徳院に寄進した(同月二一日「道金・智位連署田地寄進状」「道金・智位連署起請文」大徳寺文書)。我孫子屋次郎は当時堺の豪商として知られた我孫子屋の一族であり、道金・智位もその同族とみられるが、次郎には妻子がなかったためかねて跡職の処理を道金・智位に依頼していたのである。本来、こうした寄進の際には、その土地の所有権を明示する本券類を添えるものであるが、我孫子屋次郎の場合は、文明二年に本券類を他所へ預けていて紛失していたので、養徳院へ寄進するにあたってその旨を明記し、田地目録を添えるようにということも遺言していた(同三年後八月一二日「道金・智位連署文書紛失状」同文書)。そこで道金は、その田地を次郎がいつ、どのような方法で入手したかまで詳細に注記した坪付注文を作成して、一〇月に養徳院へ差出した。その摂津五箇庄内我孫子屋次郎跡坪付注文(同文書)によると、次郎の私領一町九反七五歩は応永一六年(一四〇九)から永享八年(一四三六)にかけての二八年間に入手した一八ヵ所に散在する田畑から構成されている。


五箇庄
ごかのしよう

西は加古川東岸の現加古川市加古川町から東は稲美いなみ蛸草たこくさ、明石市林崎はやしざき町に至る一帯に比定される庄園で、五ヶ庄とも記す。仁安二年(一一六七)八月一〇日、平清盛は播磨国印南野いなみのなどに大功田を賜わっているが(公卿補任)、これが五箇庄成立の端緒であったといわれる(加古川市史)。文治二年(一一八六)六月九日、播磨における武士押領の地に五ヶ庄がみえる(「後白河法皇条々事書」吾妻鏡)。同四年五月一二日、後白河法皇梶原景時知行所として五ヶ庄の知行を認めている(「吾妻鏡」同年六月四日条)


五箇庄
ごかのしよう

戦国期にみえる河北郡の庄園。現津幡つばた町と金沢市にまたがる地域とみられるが、詳細は不明。「三州志」には近世の郷庄名として石川郡と河北郡の両方に五箇庄(五ヶ庄)があげられており、いずれも現金沢市域にあたるが、必ずしも当庄域を継承したものとはみなしがたい。「三州志」は石川郡と河北郡の五箇庄を合せて中世の一庄としているが、「加賀志徴」は両郡にそれぞれ五箇庄があったとする。蓮如御文(帖外)に「文明第三炎天之コロ、加州加卜郡五ケの庄」とみえる。永正二年(一五〇五)一〇月九日の足利義澄御内書案(御内書案)に、幕府御料所「加州五箇庄」を料所の号をやめ恩給地として伊勢貞亮に与えたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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