…これらの運営には貴族の合議制・請負制をとっていた。戦時体制が強化されると,王都を五部に分け,各部に貴族を配置するとともに,それぞれ兵500人をおいた。地方は軍政色のきわめて強い行政制度で,全国を五方にわけ,各方の所在地を方城,長官を方領,副長官を方佐といった。…
…五族の有力者たちが高句麗の貴族となり,王の廃立など国政を貴族会議で決定し,貴族はそれぞれ部内を統率し,私兵を擁していた。427年平壌に遷都すると,五族は内・東・西・南・北の五部,あるいは黄・前・後・左・右の五部と改称した。この改称を貴族勢力の衰退,王を中心とした中央集権の確立とみる説が有力であるが,貴族の構成員の変動と,貴族による中央集権の強化とみるのがよかろう。…
…百済は王都を泗沘(しひ)(忠清南道扶余)に移すと,三国対立の激化に備えて,王都と地方の政治体制を軍政化した。王都を上・前・中・下・後の五部あるいは中・東・西・南・北の五部に分け,各部をさらに五巷(坊)に区分し,各部を軍政の単位とし,各部に500人の軍隊をおいた。また地方を五方に分け,中方は古沙城(全羅北道古阜),東方は得安城(忠清南道恩津付近),南方は久知下城(全羅南道長城か),西方は刀先城(未詳),北方は熊津城(忠清南道公州)を中心とした地方である。…
※「五部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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