商家などで奉公人に別家を許すこと。17世紀以降,商人や職人の家屋の軒先に屋号,商品,商標などをデザイン化した暖簾を出すのが一般的になった。商人や職人が暖簾を重視するようになったのは,家業という特定の営業権や技術をもつ経営が成立していったことによる。家業として認められた営業を持続するために,主人と奉公人たちは擬制的家族関係の意識をもって経営を維持するようになり,また拡大するさいは暖簾分けという営業権の分与がなされていった。主人は家業に忠誠を尽くした奉公人たちに対し,その功に報いるためにも暖簾を分ける形で一定の顧客層を分け,資本を与えて独立した店をもたせるようにした。
17世紀に成立した多くの豪商の経営は,主人が営業面に直接介入しないで,実権をもつ手代層を中心とする数多い奉公人たちが,強い家族主義的な意識をもとに運用されていた。こうした奉公人によって運用されている経営が維持・発展していくためには,奉公人が家業,主人に対して信頼を寄せ,忠誠を誓うしくみがなくてはならない。奉公人たちの忠誠心を維持していくためには,給与とか昇進といったしくみによって優遇するだけでなく,退職後の仕事と生活が保証されることも必要であった。近世の豪商経営をみていくと,この暖簾分け制度が大きな意味をもっているのに気づく。
大坂道修町(どしようまち)の武田(近江屋)長兵衛家(武田薬品工業の前身)の場合,1779年(安永8)に主家である近江屋喜助から屋号,暖簾を使うことを許され,銀2貫目の元銀と秋田方面の販売圏を譲られ,道修町の薬種仲買として独立することができたのである。主家の近江屋喜助も,近江屋一族の宗家太右衛門の別家格であるし,武田も経営が安定してくると次々と暖簾を分けて別家を増やしていった。文化・文政・天保期(1804-44)に武田は9軒もの分家や別家店を出し,主家の経営と結びつき,相互に補完するというかかわりのなかで,企業集団を形成していっている。こうして奉公人が主家から暖簾を分けてもらう場合,貢献度によっていろいろと区別されていた。三井家(越後屋)の場合,奉公人のトップクラスである元〆(もとじめ),名代,支配人,それに本店組頭を務めた者は越後屋の屋号と暖簾印に丸に井桁三の文字を使うことが許された。本店以外の店の組頭とか役頭,上座の者といった中間管理職的な立場を務めた者へは,屋号は越後屋だが,暖簾印に丸なしの井桁三の文字が許されている。さらに平手代には丸のなかに越の字を使うことが定められていた。暖簾印を使うことを許されたといっても,こうした違いがあっただけではなく,店の入口に垂らす暖簾印には認めるけれど,看板や荷物の絵符,諸道具などへの使用は認めないとか,他国で商売するときは使えない,などの制限もあった。また主家から暖簾を分けてもらって営業する場合,同じ商売が許されない場合もあるが,主家の営業の下請など補完部門の役割をもつことがある。大坂の高麗橋1丁目には,呉服営業の越後屋のほかに同じ屋号,暖簾印をもつ糸店,鼈甲店,紙店,紅白粉店,塗道具店,鏡店などがあったという。また借家人のなかには縫仕立屋などの職人が居をかまえていた。こうした状況は,大名貸で著名な鴻池家のあった今橋2丁目でも同じで,町内の地主28人のうち,鴻池を名のる者は12人もいる。鴻池家の本家を中心に暖簾内で町内が構成されていたといえる。
暖簾分けは豪商経営だけでなく,旅館,貸座敷業,職人などにもみられることが京都の衣棚北町,同南町の場合で指摘されている。同一の暖簾を掲げることによって社会的・経済的信用は大きくなり,主家を中心に庇護・従属の関係が固く結ばれていた。ただ暖簾を分けてもらって自立しても経営が立ち行かなくなり,転出してしまうこともあった。大坂でも暖簾分けで一家をかまえるようになったのが,1,2年で立ち行かなくなり,他町へ転出していくのが数多くみられている。経営基礎が弱いにもかかわらず,暖簾分けによって次々と一人前の家をつくり出すという状況が各所でみられる。家業としての商家経営を維持するためにも,また都市社会の存立のためにも,暖簾分けのもつ意味は大きい。幕府も家業の存続・維持のために尽くす人々を表彰することを寛政(1789-1801)から文化・文政期(1804-30)にかけて数多く行った。このことは暖簾分けのもつ機能を重視し,維持していこうということの現れだといえよう。17世紀後半からみられるようになった暖簾分けの制度は,その後も家族主義的な経営原理に依存する自営業や企業が存続しているかぎり,その形態などはやや変えながらも,今日でも見いだすことができる。
執筆者:松本 四郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
暖簾下げとも。江戸時代,商家において長年勤功を積んだ奉公人に,主家が一定の資本や得意先などを分与して独立した店を出させ,同じ屋号や看板の使用を許すこと。その際,主家との同商売が禁止されたり,主家の営業の下請けを担うなど種々の制限や義務があった。将来の生活と仕事を保障するこの制度は,奉公人の主家への服属を確保し,商家の経営を維持するという点でも有効に機能した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…雇用労働制が生まれる前から,日本では,隠居する武士に退隠金,永年勤続ののちに独立する商家使用人に〈のれん分け〉というように,長期間の在職に対する有形無形の給付を行う慣行があった。明治以降は熟練労働者の長期確保のために,在職年数に応じて在職年数が2倍だと退職金は4~5倍になるような退職金が払われるようになり,昭和初期の不況・減員期には失業保険制度がなかったこともあって,解雇を円滑に行うための解雇手当(会社都合退職金)を制度化した。…
…《守貞漫稿》には〈上の短き物を暖簾〉といい,〈下の長きを京坂にては長暖簾,江戸にては日除〉といったとある。暖簾はやがて商店の象徴となり,〈のれんが古い〉といえば,老舗(しにせ)を表すこととなり,〈のれんにきずがつく〉といえば,店の信用が損なわれることをいい,また〈暖簾分け〉は長年勤めた奉公人に対して主家の屋号,営業権を一部譲渡することをいうなど,営業権,顧客の店に対する信用を表す言葉となった。暖簾分け【宮本 又郎】
[経済的価値としての〈のれん〉]
法律および会計上,のれんとは営業に固有な事実関係,すなわち営業上の秘訣,販路,得意先,創業の年代,名声,地理的関係などをさす。…
… 18世紀に入り,豪商たちの経営は家憲や家訓をつぎつぎに制定し,奉公人制度を確立していった。すなわち主人を頂点とし,忠誠を誓う奉公人の存在を前提とし,昇進,給与,暖簾分けの制度が定められていったのである。店へ勤めるときは奉公人請状(うけじよう)を出し,身元保証と年季奉公であることなどが記されている。…
…屋号は,酒屋,米屋など取扱品目によるもの,大黒屋,えびす屋など福神の名を冠するもの,伊勢屋,近江屋,越後屋など出身地にちなむものなど多様であった。暖簾分けによって別家となった商家は,営業上の信用を象徴する主家の屋号を名のることが恩恵的に許された。商号【鶴岡 実枝子】
[歌舞伎の屋号]
江戸時代の歌舞伎役者は,一般庶民より身分が低いとされ,名字が公式には許されていなかったため,屋号で呼ばれた。…
※「暖簾分け」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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