伊佐早荘(読み)いさはやのしょう

百科事典マイペディア 「伊佐早荘」の意味・わかりやすい解説

伊佐早荘【いさはやのしょう】

肥前国高来(たかき)郡内に置かれた荘園彼杵(そのき)荘と境を接し,長崎半島東部をも含み,現在の諫早市を中心に小長井町(現・諫早市)・飯盛町(現・諫早市)・長崎市・野母崎町(現・長崎市)などにわたる一帯に比定される。《宇佐大鏡》に〈伊佐早村〉とみえ,藤井宮時の私領であった村内の田畠が豊前宇佐神宮神宮寺供僧とみられる権検校(けんぎょう)の円昭に譲られ,さらに大宮司の宇佐公通に譲与されてその私領になったという。これは平安末期のこととされる。1292年の河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)では田数253町として肥前一宮の造営料を負担している。1247年荘内の遠竹村本名伊崎内などの地頭職が肥前国在庁官人の高木勝丸に安堵され(高城寺文書),1271年長野村内をめぐって宗像(むなかた)氏業らと船津家重が相論,幕府はこれを氏業・氏郷らに安堵している(宗像神社文書)。1284年頃には京都仁和(にんな)寺領としてみえ(深堀文書),1314年には荘官が派遣されている(深江文書)。南北朝期には1338年一色道猷(どうゆう)により荘内戸石村内の田地地頭職勲功の賞として深堀政綱に与えられ(深堀文書),1350年には足利直冬が荘内小野村を白石通秀に宛行(あておこな)うなど(橘中村文書),当荘も動乱に巻き込まれて荘園としての実体が失われていったと思われる。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊佐早荘」の意味・わかりやすい解説

伊佐早荘 (いさはやのしょう)

肥前国高来郡(現,長崎県諫早市)の荘園。平安時代末に伊佐早村田畠が本領主藤井宮時より宇佐宮権検校円昭に譲られ,さらに円昭より宇佐大宮司公通に譲られて公通の私領になったという。《高城寺文書》宝治1年(1247)10月6日六波羅施行状案で,伊佐早荘遠竹村地頭職に高木勝丸が補任されたのが伊佐早荘の初見史料である。また永野村地頭職を筑前国宗像大宮司が知行し,1260年(文応1)本主永野氏と相論して,東西に下地中分したことがわかる。92年(正応5)河上宮造営用途支配惣田数注文によれば,伊佐早荘は253丁とある。正和年間(1312-17)には京都仁和寺仏母院領であったが,南北朝時代には恩賞地の対象として,武士たちに配分されている。伊佐早荘の名称は応永年間(1394-1428)まで残存しているが,荘園としての機能は南北朝時代初期に終わっていたものと思われる。
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