百科事典マイペディア 「彼杵荘」の意味・わかりやすい解説
彼杵荘【そのきのしょう】
→関連項目伊佐早荘
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肥前国彼杵郡(現,長崎県東彼杵郡,西彼杵郡,長崎市,西海市,大村市,佐世保市の一部)の大村湾,千々石(ちぢわ)湾,角力(すもう)灘に面した海岸沿いに設定されていた九条家領荘園。《東福寺文書》建長2年(1250)11月九条道家家領処分状案にみえるのが初見史料。このとき道家から孫女の四条天皇妃藤原彦子(宣仁門院)に譲られている。文永年間(1264-75)には仁和寺が本家として荘内の相論の解決を図っており,鎌倉時代末期には九条家の菩提寺である東福寺領としてあらわれている。1259-60年(正元年中)および93-99年(永仁年中)に領家代の検注,1268年(文永5)に関東御下知により惣検注が行われており,92年(正応5)の肥前国惣田数注文によれば,彼杵荘の田数は412町5反となっている。領家職は宣仁門院から関白九条師教,大納言九条房実,左大将九条道教へと相伝されている。鎌倉時代,惣地頭,小地頭が置かれ,鎌倉時代末期には領家職も地頭と中分されていたが,1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇綸旨案によれば少弐貞経が領知した地頭職を道教に給付していることがわかる。しかし南北朝動乱期には九条家,東福寺の支配も不知行の状態となり,領家職も兵粮料所や恩賞地として,在地武士たちに充て行われた。
執筆者:瀬野 精一郎
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