彼杵荘(読み)そのきのしょう

百科事典マイペディア 「彼杵荘」の意味・わかりやすい解説

彼杵荘【そのきのしょう】

肥前国彼杵郡に置かれた九条家領の荘園。長崎市・西彼杵郡東彼杵郡・大村市にわたる範囲が想定される。1250年彼杵荘が九条道家から孫の宣仁門院(四条天皇妃藤原彦子)に譲られている(九条家文書)。1264年頃には京都仁和(にんな)寺本家として荘内の相論を裁許しているが,この本家職は鎌倉末期には九条家菩提(ぼだい)寺の京都東福寺に寄進された(東福寺文書)。九条家は領家職を保持していくことになり,宣仁門院のあと関白九条師教(もろのり)に譲られ,師教の病気により大納言九条房実(ふさざね)に譲与,さらに左大将九条道教へと相伝されている。1292年の河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)では田数412町5反。荘内戸町(とまち)浦の地頭職を与えられた深堀氏は彼杵荘惣地頭代である肥前国御家人の戸町氏と長期にわたって相論を続けるが,モンゴル襲来契機に所領・所職の分割配分を行っていった(深堀文書)。1333年荘内に拠点を置く江串三郎入道が後醍醐天皇の一宮尊良(たかよし)親王を奉じて挙兵しているが,南北朝期の動乱が進展するなか,1374年に九条家の領家職兵粮料所として,また1385年には恩賞地として深堀氏らに与えられており,本家・領家は不知行になっていたと考えられる。
→関連項目伊佐早荘

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改訂新版 世界大百科事典 「彼杵荘」の意味・わかりやすい解説

彼杵荘 (そのきのしょう)

肥前国彼杵郡(現,長崎県東彼杵郡,西彼杵郡,長崎市,西海市,大村市,佐世保市の一部)の大村湾千々石(ちぢわ)湾,角力(すもう)灘に面した海岸沿いに設定されていた九条家領荘園。《東福寺文書》建長2年(1250)11月九条道家家領処分状案にみえるのが初見史料。このとき道家から孫女の四条天皇妃藤原彦子(宣仁門院)に譲られている。文永年間(1264-75)には仁和寺が本家として荘内の相論の解決を図っており,鎌倉時代末期には九条家の菩提寺である東福寺領としてあらわれている。1259-60年(正元年中)および93-99年(永仁年中)に領家代の検注,1268年(文永5)に関東御下知により惣検注が行われており,92年(正応5)の肥前国惣田数注文によれば,彼杵荘の田数は412町5反となっている。領家職は宣仁門院から関白九条師教,大納言九条房実,左大将九条道教へと相伝されている。鎌倉時代,惣地頭小地頭が置かれ,鎌倉時代末期には領家職も地頭と中分されていたが,1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇綸旨案によれば少弐貞経が領知した地頭職を道教に給付していることがわかる。しかし南北朝動乱期には九条家,東福寺の支配も不知行の状態となり,領家職も兵粮料所や恩賞地として,在地武士たちに充て行われた。
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