日本大百科全書(ニッポニカ)「宇佐神宮」の解説
宇佐神宮
うさじんぐう
大分県宇佐市大字南宇佐に鎮座。豊前(ぶぜん)国宇佐郡の延喜式内(えんぎしきない)大社である八幡大菩薩宇佐宮(はちまんだいぼさつうさのみや)、比売神社(ひめのじんじゃ)、大帯姫廟(おおたらしひめのびょう)神社に符合するもので、第一殿に八幡大神(おおかみ)(誉田別尊(ほんだわけのみこと))、第二殿に比売大神(ひめおおかみ)、第三殿に神功(じんぐう)皇后(大帯姫)を祀(まつ)る。八幡大神は応神(おうじん)天皇とされ、神功皇后は応神天皇の生母である。比売大神は八幡大神の配偶神であるが、宇佐氏の氏神とする説もある。社名は宇佐の地名を冠したもので、1873年(明治6)に定められた。八幡大神の神徳、由来については、応神天皇に比定されるまでは諸説多く一定しない。「八幡」も当初は「やはた」と読み、菩薩号を与えられてからは「はちまん」とも読んだ。記紀などに記される神功皇后の新羅(しらぎ)(三韓(さんかん))出兵の物語が八幡大神への信仰の基底となり、武神、鎮護国家神として崇敬される一方、外来の仏教とも容易に習合しうる特異性がある。たとえば新羅の朝貢物の奉献、東大寺大仏造立への神助、道鏡の専横を和気清麻呂(わけのきよまろ)が阻止した神託などが著例といえよう。そして天皇の即位、国家に大事があるときには「宇佐和気使(わけつかい)」が差遣されることになった。平安初期には京都に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、鎌倉初期には鎌倉に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)が創祀(そうし)され、八幡大神は伊勢(いせ)の神宮とともに「二所宗廟(にしょのそうびょう)」と仰がれ、また武士階級の守護神として崇敬されるに至った。そのため八幡大神は全国各地に祀られ、現在約2万4000社の八幡宮の総本社である。これは八幡大神の神意は託宣によって示されるという特色にも起因する。旧官幣大社。例祭(宇佐祭)は3月18日。2月13日の鎮疫祭(心経会(しんぎょうえ))、7月31~8月2日の神幸祭、10月9~11日の仲秋祭(放生会(ほうじょうえ))がおもな神事。本殿は八幡造の祖型とされ国宝に、境内は国の史跡に指定されている。社宝としては征西将軍懐良(かねよし)親王奉納の白鞘(しらさや)入剣、天復銘の古鏡、銅鐘(朝鮮鐘)などが重要文化財に指定されているほか、宇佐大鏡、『宇佐八幡宮託宣集』をはじめ、到津(いとうづ)・永弘(ながひろ)・小山田(おやまだ)文書、境内古図があげられる。
[二宮正彦]
宇佐八幡宮領
一般に有力神社領は神郡(しんぐん)、封戸(ふこ)、荘園(しょうえん)に区分されるが、宇佐八幡宮の場合、神郡が存在したことを示す明確な史料はない。封戸を初めて給されたのは740年(天平12)のことで、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱平定の祈請(きせい)に対する報賽(ほうさい)として20戸が与えられた。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には750年(天平勝宝2)、大仏造立助成の功により八幡大神に封800戸、位田80町、比売(ひめ)神に封600戸、位田60町が寄進されたことが記されている。その後、封戸の返納、回復を繰り返したが、『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』には798年(延暦17)、宇佐八幡宮の封戸として1410戸があげられている。平安時代に入ると、これらの封戸は徐々に荘園化し、「十郷三箇荘」とよばれるようになった。十郷とは豊前(ぶぜん)国宇佐郡の封戸(ふべ)、向野(むくの)、高家(たけい)、辛島(からしま)、葛原(くずはら)、下毛(しもげ)郡の大家(おおえ)、野仲(のなか)、豊後(ぶんご)国国東(くにさき)郡の安岐(あき)、武蔵(むさし)、来縄(くなわ)の各郷で、三箇荘とは豊後国緒方(おがた)荘と日向(ひゅうが)国の宮崎(みやざき)荘、臼杵(うすき)荘である。以上の封戸の系譜を引く荘園のほかに、平安中期以降、「本御荘十八箇所」とよばれる荘園群が一円荘(いちえんしょう)として成立した。このほか各地域の領主が開発し寄進した「国々散在常見名田(くにぐにさんざいつねみみょうでん)」があり、これらを合計すると宇佐宮領は九州一円に120か所余り分布していたことになる。これらの社領は南北朝期以降、武士の押領(おうりょう)により有名無実のものとなり、太閤(たいこう)検地による石高(こくだか)制の成立によって最終的に消滅したが、1646年(正保3)徳川家光(いえみつ)の朱印状により1000石が保証され、近世の社領が確立した。
[海老澤衷]
『中野幡能著『八幡信仰史の研究』上下(増補版・1975・吉川弘文館)』