日本歴史地名大系 「伊佐村」の解説
伊佐村
いさむら
- 高知県:土佐清水市
- 伊佐村
足摺山の西麓に位置し、北に
足摺半島西岸の伊佐・松尾・
村名は天正一七年(一五八九)の足摺之村地検帳にみえ、伊佐村の検地面積一〇町六反余、屋敷数三九、うち居屋敷二七。屋敷のうちには金剛福寺の院坊である十輪院・賀宝坊・西ノ坊が含まれ、ほかに白王権現奥院がある。すべて足摺(金剛福寺)分。ホノギに「鍛冶ヤヤシキ」「大工ヤシキ」「マンチウヤシキ」などがみえる。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)によると伊佐・松尾を統べる浦刀禰がおり、天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書によれば両浦合せて水主数五一、船数八(うち漁船七)。元禄地払帳によると本田高一二四石余、うち五四石余は金剛福寺領、七〇石余は蔵入地、新田高二九石余は全部貢物地。これは足摺村を含めた数値で、伊佐村の本田高は一〇一石余(元禄郷帳)。なお地払帳は本田・新田の総計を一二八石余とし、内訳と合わないが、新田高の数値が誤りか総計が誤りかわからない。
「土佐州郡志」が「農漁雑処ス、戸凡三十余」と記すように、当村には郷・浦両分があったが、元禄二年(一六八九)中村藩が廃絶されるまでは、郷分は中村藩、浦分は土佐藩に属し、本田高のうち半ば近くは金剛福寺領となっており、しかも金剛福寺領分の百姓には江戸時代初期、諸役が免除されていた(南路志)ため、利害関係は複雑であったとみられる。
伊佐村
いさむら
- 山口県:美祢市
- 伊佐村
現美祢市東端に位置し、東から南を
「和名抄」に記される古代の
慶長一五年(一六一〇)の検地帳では伊佐郷として、総石高四千一四〇石余、うち田は三〇五町余で高三千六一四石余、畠は七九町余で高三一二石余、百姓屋敷数三二二、市屋敷数二五、ほかに小物成四四石余とある。
伊佐村
いさむら
伊佐村
いざむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報