日本歴史地名大系 「美祢市」の解説 美祢市みねし 面積:二二四・九二平方キロ北を長門市、東を美祢郡秋芳(しゆうほう)町、南を厚狭(あさ)郡、西を豊浦郡に接する。かつての美祢郡の西半部にあたる地域である。東には美祢郡から一部当市にまたがる標高三〇〇―四〇〇メートルの石灰岩台地の秋吉(あきよし)台が南北に横たわり、長門市との境の山地に源を発する厚狭川が、伊佐(いさ)川をはじめ諸川を合して南流、厚狭郡山陽(さんよう)町を経て周防灘に注ぐ。集落はこれらの諸川がつくる小盆地や谷々に散在する。〔原始・古代〕先土器時代の遺物が伊佐町から出土し、一個の頭蓋骨も発見された。縄文から古墳時代にかけての遺物や遺跡は、おもに秋吉台西端の大嶺(おおみね)盆地周辺に多い。うち大嶺町東分長(ひがしぶんちよう)ヶ坪(つぼ)からは縄文式土器や弥生式土器片・人骨片のほかに脊椎動物の骨・貝類・石鏃などが出土した。同じく東分の中村(なかむら)からは弥生時代から古墳時代にかけての村落遺跡が発見され、同時に出土した弥生式土器は遠賀川式土器の系統のものが多く、九州北部の文化の影響がみられる。また東分の横道(よこみち)には古墳時代後期の古墳群があり、小児を含む約九体の埋葬人骨が発見された。伊佐町伊佐の野崎(のさき)および大嶺町の曾根(そね)から吉則(よしのり)にかけては、美祢郡北方の桂木(かつらぎ)山(七〇一・五メートル)頂に基点をもついわゆる「美祢条里」の遺構が明瞭に看取されるが、この条里の開発時期は明らかでない。「和名抄」には美祢郡内の郷として美祢(禰)・諸(渚)鋤・位佐・作美・賀万(萬)および駅家(高山寺本にはなし)の六郷がみえるが、このうち美祢市域と思われるのは位佐と駅家であるが、ほかに美祢を加える説もある。位佐郷は伊佐町の伊佐・河原(かわら)の厚狭川東岸地区と推定される。この地の桜(さくら)山(四五五・五メートル)は大峯(おおみね)山ともよばれ、山岳修行者の信仰を集めた。頂上付近には正暦二年(九九一)花山法皇が十一面観音像を安置したと伝える南原(なんばら)寺がある。駅家郷は、美祢市をほぼ南北に縦断する古代の陰陽連絡路に設けられた駅家である阿津(あつ)・鹿野(かの)・意福(おふく)辺りと推定される。うち鹿野には「文徳実録」仁寿元年(八五一)一〇月八日条に従五位下を授与されたと記される長門国四神の一、「鹿」の社があったとされ、その社地跡は大嶺中央の下領(しもりよう)台地に比定されている。 美祢市みねし 2008年3月21日:美祢市と美祢郡美東町・秋芳町が合併⇒【美東町】山口県:美祢郡⇒【秋芳町】山口県:美祢郡⇒【美祢市】山口県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「美祢市」の意味・わかりやすい解説 美祢〔市〕みね 山口県中西部,厚狭川(あさがわ),厚東川(ことうがわ),有帆川(ありほがわ)の上流域に広がる市。1954年大嶺町,伊佐町,豊田前町の 3町と於福村,東厚保村,西厚保村の 3村が合体して市制。2008年美東町,秋芳町の 2町と合体。三畳紀層に含まれる無煙炭の産地(大嶺炭田)として発展したが,鉱脈の枯渇に加え第2次世界大戦後に需要が急減し 1971年閉山。一方,大正中期から石灰岩の採掘が進み,セメント工場が立地。大理石も産する。東部を中心に米作やナシ,ゴボウなどの栽培が行なわれる。市の中部に日本最大の石灰岩台地秋吉台があり,秋芳洞とともに国の特別天然記念物に指定。台地上にはドリーネ,ポリエ,ポノールなど石灰岩地域特有の地形が発達し,先史時代の遺跡も多い。万倉の大岩郷(まぐらのおおいわごう),大正洞,景清穴(かげきよあな),中尾洞,共和のカシの森はいずれも国指定天然記念物。秋吉台の南東には長登銅山跡があり,国の史跡に指定されている。市域の一部は秋吉台国定公園に属する。JR美祢線,中国縦貫自動車道,国道316号線,435号線,490号線が通じる県内交通の要所。面積 472.64km2。人口 2万3247(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by