伊倉村(読み)いくらむら

日本歴史地名大系 「伊倉村」の解説

伊倉村
いくらむら

[現在地名]下関市大字伊倉・伊倉本町いくらほんまち・伊倉町一―三丁目・川中本町かわなかほんまち・川中本町一―二丁目・伊倉東町いくらひがしまち

現下関市の西部にあたり、南は熊野くまの稗田ひえだ、北は秋根あきね延行のぶゆき、西は綾羅木あやらぎ、東はいちみやの各村に接する。村の北境を綾羅木川が西流する。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する小村

和名抄」に豊浦郡の一郷として「生倉」とあり、訓は高山寺本には「伊久良」、刊本には「伊久」とみえ、伊倉村は「生倉郷」の内に比定される。貞治三年(一三六四)八月の国分寺文書に「長門国法華寺免田坪付注文伊倉村」とあり、応永九年(一四〇二)二月二九日の大内盛見文書にも伊倉村とみえる。


伊倉村
いぐらむら

[現在地名]四日市市伊倉一―三丁目・西伊倉にしいぐら町・久保田くぼた一丁目・中川原なかがわら三丁目・芝田しばた一―二丁目

三滝みたき川の南岸自然堤防上にあり、西は大井手おいで村、村の北三滝川沿いに湯之山ゆのやま街道が走る。「五鈴遺響」は「神鳳鈔」の「外宮飯倉御厨一石」の故地とする。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写には「壱石六斗 外記助 いくら」とみえる。また織田信雄分限帳によれば、天正一二年以前、寺西勘左衛門が「いくらの郷」で一八〇貫文を知行していた。江戸時代は初め津藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)では、田方二七二・三四二石に対し、畑方は二四・六九八石と著しく少ない。寛文九年(一六六九)支藩久居藩分封後は、久居藩に属した。


伊倉村
いくらむら

[現在地名]菊池市重味しげみ

生味おうみ村の南にあり、菊池川が南を西流する。隈府わいふ町高札辻より約一里三〇町。天正一七年(一五八九)検地帳に田四町八反九畝余・畠一二町二反二畝、分米一二七石余とある。近世は河原手永に属し、「国誌」は小村として茂藤里・古川をあげる。文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑には高一六四石余、田五町五反七畝余・畑一六町六反八畝、竈数六四・人数三一〇、牛馬一六二、氏神天満宮とあり、菊池川筋に古川堰・目鑑橋・定橋各一があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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