伊勢崎城跡(読み)いせさきじようあと

日本歴史地名大系 「伊勢崎城跡」の解説

伊勢崎城跡
いせさきじようあと

[現在地名]伊勢崎市曲輪町・本町・大手町

広瀬ひろせ川左岸、伊勢崎市街地西北端の字赤石あかいしに江戸初期築城。戦国期には北側の同聚どうじゆ院一帯に赤石城が築かれていたと推定され、痕跡がわずかにみられる。

〔戦国時代〕

赤石城は金山かなやま(現太田市)赤堀あかぼり(現佐波郡赤堀町)などと並ぶ東上野の軍事拠点に位置し、赤石要害・伊勢前(先)城などとして史料上に散見する。永禄三年(一五六〇)の上杉謙信越山の翌年、由良成繁に攻め落され、謙信が在陣した(二月二五日「北条氏照書状」永野清氏所蔵文書など)。赤石要害の一角、「伊勢崎風土記」によると近世の伊勢崎城の北東隅の木廠場にあたる地点に伊勢大神宮が勧請され、その後南西崖部に移されたという。この頃から伊勢前城の名でよばれるようになったと思われる。天正元年(一五七三)の上杉氏再征によって大攻勢を受け、力丸安芸屋敷・安俣方屋敷をはじめとして乾曲輪・東曲輪以外は火矢で全焼し落城した(同年一二月二七日「由良成繁書状」由良文書)。同五年までには再び北条方となり、城普請を行っている(三月二八日梶原政景書状写「歴代古案」所収)

〔近世〕

慶長六年(一六〇一)大胡藩家老稲垣長茂佐位さい郡内に一万石を与えられ当地に移った。同氏によって縄張りが行われ、新たに築城されたものと思われる。稲垣長茂が伊勢崎に赴任した当時、戦国期の城はすでに破却されていたため、同聚院付近を仮の居所に定め、築城に取掛ったと伝える。西は広瀬川、北は現在の市立第一保育所の北側を東西に、東はあら町・紺屋こんや町の西側裏手を南北に、南はほん町の北側背後から広瀬川まで一七間余から八間余の堀をめぐらし、総坪数二万八千四三四坪であった(明治四年「伊勢崎陣屋図」群馬県庁蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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