日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊勢崎藩」の意味・わかりやすい解説
伊勢崎藩
いせさきはん
上野(こうずけ)国佐位(さい)郡伊勢崎(群馬県伊勢崎市)に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。1601年(慶長6)同国勢多(せた)郡新川(にっかわ)にいた稲垣長茂(ながしげ)が加封され、1万石の初代藩主として入封。16年(元和2)その子重綱(しげつな)が越後(えちご)国刈羽(かりは)郡藤井(新潟県柏崎(かしわざき)市)に移封となり、同藩域は前橋藩主酒井重忠(しげただ)の子忠世(ただよ)の部屋住(へやずみ)料に組み込まれた。ついで37年(寛永14)同藩主忠清(ただきよ)(忠世の孫)の弟忠能(ただよし)が伊勢崎領2万2500石を分与され、前橋支藩となったが、忠能は62年(寛文2)信州小諸(こもろ)城(長野県小諸市)に移り、藩域はふたたび前橋藩領となった。その後1681年(天和1)忠清の次男忠寛(ただひろ)が2万石を分封され、以後前橋支藩として9代約200年続いて明治維新に至った。3代忠温(ただはる)は藩校学習堂を開いたが、以後歴代藩主も学問を民政に反映させるため、五惇堂(ごじゅんどう)、遜親堂(そんしんどう)ほか多くの郷学校を育成したことで有名である。1871年(明治4)廃藩、伊勢崎県、群馬県、熊谷(くまがや)県を経て、76年再置の群馬県に編入された。
[井上定幸]