デジタル大辞泉 「伊東満所」の意味・読み・例文・類語 いとう‐マンショ【伊東満所】 [1569ころ~1612]《マンショ(Mancio)は洗礼名》天正遣欧使節の正使の一人。大友宗麟おおともそうりんの姪の孫といわれるが確かではない。帰国後、イエズス会に入り、のち司祭。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「伊東満所」の意味・読み・例文・類語 いとう‐マンショ【伊東満所】 ( Mancio ) 天正遣欧少年使節の首席。大友宗麟の親類伊東氏の一族といわれる。名は祐益。洗礼名ドン=マンショ。天正一〇年(一五八二)派遣使節としてローマ教皇庁を訪問。帰国後耶蘇(やそ)会に入り、布教活動をした。元亀元~慶長一七年(一五七〇‐一六一二) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊東満所」の意味・わかりやすい解説 伊東満所いとうまんしょ [生]元亀1(1570)?[没]慶長17(1612).10.1.安土桃山時代のキリシタン教徒。天正遣欧使節の首席。日向の城主伊東義祐の外孫で大友宗麟の甥にあたる祐益とする説もある。満所とは洗礼名 Mancioを漢字で書いたもの。天正8 (1580) 年臼杵で受洗,同 10年 13歳で九州のキリシタン大名大村,大友,有馬氏の使節の正使として,副使千々石ミゲル,随員原マルチノ,中浦ジュリアンとともに,宣教師 A.バリニャーノの案内で,ポルトガル,スペイン,イタリアを歴遊し,同 13年夏,ローマで教皇グレゴリウス 13世に謁見,同 18年帰国。翌年インド副王の使節との名目で豊臣秀吉に謁見して地球儀,時計,測量儀などを献上し,またヨーロッパの現状などを伝えた。同年,耶蘇会 (→イエズス会 ) に入り,のちイルマン (伊留満),次いでバテレン (伴天連)となり,布教に努めた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「伊東満所」の解説 伊東満所 没年:慶長17.10.21(1612.11.13) 生年:永禄12頃(1569) 天正遣欧使節の正使のひとり。日向(宮崎県)領主伊東氏第10代義祐の娘町上と伊東修理亮祐青の子といわれる。豊後(大分県)大名大友宗麟の縁戚に当たる。都於郡(宮崎県西都市)出身。天正8(1580)年豊後府内で受洗しマンショの洗礼名を得る。その名の由来は不明。同年有馬セミナリオ(神学校)に1期生として入学。ヴァリニァーノによって,遣欧使節の宗麟の名代として千々石清左衛門,中浦ジュリアンらと天正10(1582)年ポルトガル,スペイン,イタリアに派遣され,ローマ教皇にも謁見し,各地で大歓迎を受ける。同18年帰国。翌年,京都聚楽第で関白秀吉に謁見。仕官をすすめられたが断り,同19年天草河内浦(長崎県)のイエズス会修練院でイエズス会に入会。慶長6(1601)年より3年近くマカオに留学し,同13年長崎で司教セルケイラによって司祭に叙階され,九州各地および萩,山口においてキリシタンの布教に努めた。長崎のイエズス会のコレジョ(学院)において病死する。<参考文献>松田毅一『天正遣欧使節』 (宮崎賢太郎) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by