伊沢家景(読み)いざわいえかげ

百科事典マイペディア 「伊沢家景」の意味・わかりやすい解説

伊沢家景【いざわいえかげ】

平安後期〜鎌倉前期の武士生没年不詳。大納言葉室光頼の侍であったが,北条時政推挙により御家人(ごけにん)となる。1190年奥州藤原氏の遺臣大河兼任(おおかわかねとう)の反乱鎮圧後,陸奥国留守職(るすしき)に補任され,御家人奉行であった葛西清重(かさいきよしげ)とともに奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)とよばれた。伊沢氏はのち留守氏を称した。
→関連項目高用名陸奥国留守職

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

関連語 小田

改訂新版 世界大百科事典 「伊沢家景」の意味・わかりやすい解説

伊沢家景 (いざわいえかげ)

平安後期~鎌倉前期の武士。生没年不詳。大納言葉室光頼の侍であったが,北条時政の推挙によって御家人となった。文筆にすぐれ,1190年(建久1)奥州藤原氏の遺臣大河兼任の反乱鎮圧の後,陸奥国留守職に補任され,国衙在庁の長官として,国衙機構を支配するとともに,国内の勧農おこない,御家人奉行であった葛西清重とともに奥州総奉行とよばれた。伊沢氏はのち留守氏を称した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊沢家景」の解説

伊沢家景 いさわ-いえかげ

?-1221 平安後期-鎌倉時代の武士。
藤原光頼につかえるが,文筆の才により幕府の御家人となる。文治(ぶんじ)6年(1190)源頼朝の奥州平定後に陸奥国留守職(むつのくにるすしき)(奥州総奉行)に任命され,その職名を名のる留守氏の祖となる。以後,留守氏は葛西(かさい)氏とともに,鎌倉時代を通じて陸奥を統治した。承久(じょうきゅう)3年死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の伊沢家景の言及

【国地頭】より

…これよりさき,頼朝は1184年(元暦1)4月,木曾義仲滅亡後の北陸道諸国に鎌倉殿勧農使=地頭として比企藤内朝宗を派遣し,85年8月,伊予守になった源義経に国務をとらせず,地頭を派遣して国務をおこなわせたりしたが,11月の国地頭はこれらの経験をふまえて実施されたものである。国地頭問題で時政の相談役であった九条家の侍左近将監伊沢家景が,のちに頼朝に召しかかえられて,奥州合戦後の陸奥国留守職となり,奥州経営にあたることになった。【大山 喬平】。…

【陸奥国】より

…その1人は,合戦の直後に平泉におかれた葛西清重で,彼は陸奥国の御家人統率と,平泉郡内検非違所(けびいしよ)すなわち検断(警察)のことを命ぜられた。もう一人は,翌年の平泉残党の蜂起,大河兼任(かねとう)の乱の後で,国衙の多賀城におかれた伊沢(留守)家景である。彼は陸奥国留守職(るすしき)といわれ,在庁官人を統率して,民庶の訴えを聞き,国務にたずさわるものとされた。…

【留守氏】より

…中世の陸奥国宮城郡の領主。初代は伊沢左近将監家景。藤原通兼の子孫という。もと在京して大納言葉室光頼に仕え,文筆に携わるものであったが,北条時政の推挙で鎌倉殿の御家人となり,奥州藤原氏滅亡後の1190年(建久1)陸奥国留守職に抜擢された。以後代々留守職を世襲し,留守氏と称する。留守職とは,陸奥国府多賀城にあって,在庁官人を指揮して国務を行うものである。その所領は国衙周辺の広大な高用名(こういうみよう)の中にあった。…

※「伊沢家景」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

《「晋書」杜預伝から》竹が最初の一節を割るとあとは一気に割れるように、勢いが激しくてとどめがたいこと。「破竹の勢いで連戦連勝する」[類語]強い・強力・強大・無敵・最強・力強い・勝負強い・屈強・強豪・強...

破竹の勢いの用語解説を読む