百科事典マイペディア 「伊沢家景」の意味・わかりやすい解説
伊沢家景【いざわいえかげ】
→関連項目高用名|陸奥国留守職
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(佐々木慶市)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…これよりさき,頼朝は1184年(元暦1)4月,木曾義仲滅亡後の北陸道諸国に鎌倉殿勧農使=地頭として比企藤内朝宗を派遣し,85年8月,伊予守になった源義経に国務をとらせず,地頭を派遣して国務をおこなわせたりしたが,11月の国地頭はこれらの経験をふまえて実施されたものである。国地頭問題で時政の相談役であった九条家の侍左近将監伊沢家景が,のちに頼朝に召しかかえられて,奥州合戦後の陸奥国留守職となり,奥州経営にあたることになった。【大山 喬平】。…
…その1人は,合戦の直後に平泉におかれた葛西清重で,彼は陸奥国の御家人統率と,平泉郡内検非違所(けびいしよ)すなわち検断(警察)のことを命ぜられた。もう一人は,翌年の平泉残党の蜂起,大河兼任(かねとう)の乱の後で,国衙の多賀城におかれた伊沢(留守)家景である。彼は陸奥国留守職(るすしき)といわれ,在庁官人を統率して,民庶の訴えを聞き,国務にたずさわるものとされた。…
…中世の陸奥国宮城郡の領主。初代は伊沢左近将監家景。藤原通兼の子孫という。もと在京して大納言葉室光頼に仕え,文筆に携わるものであったが,北条時政の推挙で鎌倉殿の御家人となり,奥州藤原氏滅亡後の1190年(建久1)陸奥国留守職に抜擢された。以後代々留守職を世襲し,留守氏と称する。留守職とは,陸奥国府多賀城にあって,在庁官人を指揮して国務を行うものである。その所領は国衙周辺の広大な高用名(こういうみよう)の中にあった。…
※「伊沢家景」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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