鎌倉幕府の奥州管轄機関をいう。源頼朝は,1189年(文治5)奥州征伐の直後,葛西清重に陸奥国御家人奉行,平泉郡内検非違所管領,その他戦後処理に絡む強大な権限を与え,翌年の大河兼任の乱平定後には,伊沢家景を陸奥国留守職に任命した。戦後処理がおさまった95年(建久6)頼朝は再び葛西・伊沢両氏に対して,故藤原秀衡の後家の庇護を命じたが,《吾妻鏡》はこれを〈両人は奥州惣奉行たるに依て也〉と評した(建久6年9月29日条)。これが同時代史料による奥州総奉行の唯一の表記である。このため,奥州総奉行については,最近では,戦後処理を目的とした臨時の職名とみる説や,《吾妻鏡》編者の作為した語句であって正式な職制上の名称ではないとみる説などがある。一方,鎌倉末期にも葛西・伊沢両氏が国内統治に関知した徴証や解説も新たに出され,依然として鎌倉期を通じて地方職制として存在した,とする説も強い。
執筆者:遠藤 巌
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鎌倉幕府の地方制度の一つ。1189年(文治5)奥州征伐の直後、葛西清重(かさいきよしげ)は陸奥(むつ)国御家人(ごけにん)の統率、および平泉(ひらいずみ)郡内検非違所(けびいしょ)の管領(かんれい)などを命ぜられた。また翌年3月には伊沢家景(いざわいえかげ)が陸奥国留守職(るすしき)となり、多賀国府(たがこくふ)に赴任、勧農(かんのう)、「民庶の愁訴」の取り次ぎ、国務に従わない者の取締りなどを行うことになり、やがてこの両者を奥州総(惣(そう))奉行とよぶようになった。鎌倉時代を通じて、葛西、伊沢(留守)の両氏がこの職についた。平泉、多賀城の両所は鎌倉期においても奥州の政治的中心であり続けた。
[入間田宣夫]
『小林清治・大石直正編『中世奥羽の世界』(1978・東京大学出版会・UP選書)』
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…荘園は摂関家領と皇室領が多く,保は国衙(こくが)(多賀城)と平泉の周辺に多い。
[鎌倉時代]
1189年(文治5)の奥州征伐によって,奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝は,戦後この国に2人のいわゆる奥州総奉行(おうしゆうそうぶぎよう)をおいた。その1人は,合戦の直後に平泉におかれた葛西清重で,彼は陸奥国の御家人統率と,平泉郡内検非違所(けびいしよ)すなわち検断(警察)のことを命ぜられた。…
※「奥州総奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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