百科事典マイペディア 「留守氏」の意味・わかりやすい解説
留守氏【るすうじ】
→関連項目伊沢家景|陸奥国留守職
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
陸奥(むつ)国の名族。初代伊沢家景(いざわいえかげ)は公家(くげ)に仕える侍であったが、北条時政(ときまさ)にみいだされて源頼朝(よりとも)の家臣となり、平泉(ひらいずみ)藤原氏討伐後の1190年(建久1)陸奥国留守職(しき)に任命され、多賀国府(たがこくふ)に入部した。家景の子孫は代々この職につき、留守姓を名のることになった。留守氏の所領は国府近辺にあって広大な領域を占める高用名(こうゆうみょう)の地頭(じとう)職であった。南北朝・室町期の留守氏は、かつてのような政治的地位を失ったが、有力な国人(こくじん)領主としての地位を維持した。しかし、15世紀初頭から伊達(だて)氏の影響力が強まり、留守氏はしだいに独立性を失って、やがて伊達氏の傘下に入ることとなった。江戸時代には転封によって本拠地を離れ、水沢(岩手県奥州(おうしゅう)市)の領主となった。
[入間田宣夫]
『『水沢市史2』(1976・同書刊行会)』▽『大石直正・入間田宣夫編『解説中世留守家文書』(1979・水沢市教育委員会)』
中世の陸奥国宮城郡の領主。初代は伊沢左近将監家景。藤原通兼の子孫という。もと在京して大納言葉室光頼に仕え,文筆に携わるものであったが,北条時政の推挙で鎌倉殿の御家人となり,奥州藤原氏滅亡後の1190年(建久1)陸奥国留守職に抜擢された。以後代々留守職を世襲し,留守氏と称する。留守職とは,陸奥国府多賀城にあって,在庁官人を指揮して国務を行うものである。その所領は国衙周辺の広大な高用名(こういうみよう)の中にあった。室町時代以後,岩切城(高森城,鴻(こう)の館ともいい,現在の,仙台市宮城野区岩切)を居城として国人領主化したが,早くから伊達氏の影響を受け,15世紀中ごろの伊達邦宗の入嗣をはじめとして,1500年(明応9)の景宗,67年(永禄10)の政景(宗朝)と,あいついで当主が伊達氏から入っている。近世には伊達氏の家臣となって一門の家格に列せられ,胆沢郡水沢(岩手県奥州市の旧水沢市)で1万6000石を給せられ,幕末にいたった。
執筆者:大石 直正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…文筆にすぐれ,1190年(建久1)奥州藤原氏の遺臣大河兼任の反乱鎮圧の後,陸奥国留守職に補任され,国衙在庁の長官として,国衙機構を支配するとともに,国内の勧農もおこない,御家人奉行であった葛西清重とともに奥州総奉行とよばれた。伊沢氏はのち留守氏を称した。【小田 雄三】。…
※「留守氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新