勧農(読み)カンノウ

デジタル大辞泉 「勧農」の意味・読み・例文・類語

かん‐のう〔クワン‐〕【勧農】

農業を奨励すること。

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精選版 日本国語大辞典 「勧農」の意味・読み・例文・類語

かん‐のうクヮン‥【勧農】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 農業を奨励すること。
    1. [初出の実例]「当時正税全納無残、旧年之物依格徴納、此並事縁勧農」(出典:類聚三代格‐七・大同四年(809)九月二七日)
    2. 「天下の旱魃を嘆き、勧農(クンノウ)の廃退を憂へて」(出典:源平盛衰記(14C前)三)
    3. [その他の文献]〔史記‐孝文帝紀〕
  3. 農業にいそしむこと。また、繁農期。
    1. [初出の実例]「折節勧農指合候て、難調候へとも」(出典:高野山文書‐(年未詳)(室町)六月六日・延利請文)

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改訂新版 世界大百科事典 「勧農」の意味・わかりやすい解説

勧農 (かんのう)

農業を勧めること。

律令政府はこれを〈勧課農桑〉と表現した。戸令国守巡行条によると,律令制下の国守は年に一度,管内を巡行することを義務づけられており,そのさい,郡領を督励して,農業をおこし,荒田を出さず,開墾に力をそそぐことになっていた。また政府は大麦,小麦,粟,黍,大豆,小豆などの陸田耕作をも奨励し,計帳使に耕種の町段・収穫量を報告させている。また730年(天平2)には諸国に命じて桑漆帳の記載を厳格にし,国内を巡検して殖満させるようにした。761年(天平宝字5)になると政府は畿内を調査して用水施設の適地を探し出し,764年には畿内および周辺諸国に造池使を派遣した。さらに767年(神護景雲1)には勧課農桑に専当する国司,郡司,農民をえらんでいる。818年(弘仁9)には日照りのさいの措置として,水の便があれば所有関係のいかんをとわずだれもが種子をおろして苗代づくりをしてもよいと定め,829年(天長6)には唐の風にならい手動,足踏,畜力の水車を普及させようとし,さらに841年(承和8)には大和宇陀郡にあった稲機(稲を懸けて干す道具)を諸国にも普及させるなど,農業技術の開発に積極的にとりくんでいる。また852年(仁寿2)には春の国内巡検と池堰の修固をきびしくする一方,不耕の地には救急義倉稲を給与することとし,なお不足すれば営料を貸与して秋に返還させることをきめ,どうしても耕作者がえられない場合には公力をもって直営し,全収穫を官の倉庫へ納入させた。

中世になると荘園制のもとで,領家の勧農が行われた。荘園領主は毎年春さきに荘園の池・溝を整備し,百姓の逃死亡などで不作田が出ると浪人を招きすえてこれを耕作させ,年貢の斗代(年貢率)を引き下げたりしたほか,種子・農料を下行して一年の耕作を円滑にしようとした。1104年(長治1)春には紀伊国木本荘へ勧農のために使者が下向し,31町3反の荘田に種子・農料を下行した。若狭国太良荘では1239年(延応1)預所定宴が農民たちに農料を下し,斗代をひき下げて,荘田を満作させるための措置を講じている。また越中国石黒荘の弘瀬郷には勧農田と称される田地があったが,これは百姓の逃死亡による不作田に新しく浪人を招いて耕作させた田地であった。太良荘や石黒荘では新たに作人を割りつけたさいの台帳を勧農帳と呼んでおり,荘園経営のための基本台帳の一つであった。荘園の勧農には,通例公文(くもん)があたっていたため,この公文職の支配をめぐって荘園領主と地頭との間でしばしば紛争がおきた。平氏政権の末期には,国衙に勧農使をおき田所をとおして国衙領の田地を掌握しようとしたらしいことが安芸国の例で知られる。源頼朝も源義仲滅亡後の北陸道に勧農使を派遣した。1185年(文治1)の国地頭はこの勧農使の系譜をひいていたが,翌86年に北条時政が7ヵ国にわたる国地頭職を辞退して勧農から手をひき,それ以後幕府は,東国と九州をのぞいて国務に干渉しないことになった。
執筆者:

戦国大名の出現以後,近世期を通じて勧農は領主の最も重要な政策の一つであった。領主は年貢収取の実をあげるために,農民生活の安定と農業生産の発展をもたらす農業振興策に意をもちいた。しかし勧農の内容は農業振興策につきるのではない。勧農はあくまで農民支配=年貢収取を目的にした領主の対農民施策であり,農民の生活・生産に対する領主権力の干渉である。勧農の内容には,農民の日常的心得に関する説諭,農作業への精励の勧諭,農業の技術指導などが含まれており,それらとともに農業振興策が勧農の一環をなしている。近世には《勧農固本録》(万尾時春著,1725刊),《勧農或問》(藤田幽谷著,1799成立),《勧農策》(武元立平著,1804-17成立)など勧農を表題に掲げる著書が現れるが,冒頭の著書の内容は地方書(じかたしよ)であり,後の2著書は経世家,民政家による農政論である。地方書では,年貢収取の実務を担当する下級役人の心得るべき多くの諸事項中の一つとして,農民撫育や農業技術指導上の注意が説かれる。後者の農政論では多様な論点が展開されるが,共通の傾向は〈入るを量りて出るを制す〉を財政上の原則とし,分限に応じた倹約を論じ,米穀を尊んで貨幣をいやしみ,農民を重んじて商人をいやしむべしとし,農村・農民の疲弊窮乏を打開すべき民政を論じて領主財政の再建をはかろうとする。いずれの著書も,取り扱う範囲は勧農の域を大きく越えているが,勧農は,農民支配=年貢収取の基礎を固めるものとして位置づけられている。

 一概に勧農と言っても,それが行われる時期や地方によって,その内容や施行の方法に相違があり,農業生産の発展の度合と生産を担う農民の生活実態とに規定されて,農業振興策が異なる。戦国末~近世初期には,農業振興策の基軸は大規模な治水土木工事による耕地開発であった。この時期は日本の治水事業史上,大規模工事の一大盛況期をなし,領主による直接の掌握下で治水灌漑工事が積極的に推進された。戦国武将による治水工事の典型的事例には武田信玄による釜無川の治水があり,豊臣氏の直轄地では河内の狭山池修復工事,江戸幕府の関東幕領では利根川・荒川の瀬替,備前堀の開削などが著名である。このほかにも後北条氏の熊谷堤,佐々成政による常願寺堤,加藤清正による白川の石塘など,枚挙にいとまがない。治水工事とともに創設された灌漑施設の維持管理にも領主は心を寄せ,必要な用具や資材を農村に給付する。初期の農業技術指導の中心は裏作奨励である。1600年(慶長5)福岡に入部した黒田如水は,その地に二毛作の行われていないのを知って裏作を奨励している。加賀藩では改作法を通して農業技術に関心を寄せ,米麦の品種選択や肥料利用の重要性に着目し,大唐米の試作を十村(とむら)・山廻役に命じ(1669),水田地帯の小百姓には麦種を貸し出して裏作麦の普及につとめ(1675),あるいは麦品種の選択を指示し(同年),さらに肥料の干鰯(ほしか)を重視して他領への移出を禁止している(1669)。初期の農業振興策の特徴は,米納年貢徴収の基礎としての小農生産の確立・発展に主眼があり,したがって稲作の振興に重点があった。津藩の1649年(慶安2)の一法令は,裏作麦の普及が稲作の水利に悪影響をおよぼすとして,裏作麦の作付面積を制限している。裏作奨励に力を注いだ加賀藩でも,1675年(延宝3)裏作の小麦が翌年の田植時期を遅らせて稲作を害してしまうという理由で,本田での小麦作を禁止している。

 中期以降になると,領主財政の立て直しを意図した藩政改革の一環として,流通過程での施策に対応した勧農が説かれる。米沢藩では財政整理の必要から諸士の次三男に土着を督励し,1801年(享和1)に酒田の本間信四郎などからの借用金を勧農金と名づけて新百姓の夫食(ぶじき)・家作・資材の資金に給付し,士分の土着を促進して開墾の実をあげた。他方,蚕桑役局を設けて養蚕の指導を行い,家中工業をおこして織物の特産化に力を注いだ。これは農村を領主的商品流通のルートに組み込み,特産物の藩専売制を実施して財政収入の増大をはかるものである。このような農業振興策の特徴は,農業生産の発展と商品流通の展開とに照応した地方的特産物の奨励とその増産施策である。桑,楮(こうぞ),藍,紅花,サトウキビなどの加工原料作物の栽培を奨励し,農家副業としての農産加工業を興隆させ,流通過程を領主の直接的な掌握下に,あるいは領主財政と深い関係をもつ商人の掌握下に置き,農業生産の発展の成果を流通過程を通して領主が吸い上げる。後進地の対馬藩では,18世紀初頭のころ,焼畑農業から普通畑への移行を目的にした農業振興策が採用され,甘藷の導入,野猪の被害対策などが実施されているが,これは極端な低生産力地帯の特例である。
執筆者:

明治維新後,勧農は政府の殖産興業政策の一環として推進されたが,農業奨励の政策(勧農政策)と,そのもとでおこなわれた諸事業(勧農事業)がある。そうした政策を担当した中央官庁は,1870年(明治3)に開設された民部省勧農局,71年の大蔵省勧農寮,ついで74年設立の内務省勧業寮(後に勧農局),その後は81年新設の農商務省(農務局)などであった。政府の勧農政策の展開のもとで官立の駒場農学校や官営の内藤新宿新宿試験場,三田育種場などが設立・運営され,また農業技術に熟達した老農が農法の改良に活躍した。こうした政府の勧農政策は,欧米の農業技術を日本農業のなかに移植し,農業の資本主義化をはかろうとする内容をもっていた。政府が洋式農法を基礎に外国から大農法を移入して採用しようとしたのも,同じ目的にそった措置である。その方法は,士族授産事業の一部として没落士族を帰農させ,畑作を中心に大農経営を試みさせるというやり方であった。とくに千葉県では,一部の旧下士層を含めた東京の窮民が多数送り込まれ,開拓に当たったが定着せず,長つづきしなかった。政府直営の勧農事業が目ざす洋式農法の日本への移植も,稲作を中心とする小農経営中心の日本農業の体質を変えることはできず,1880年代後半以降,寄生地主制の進展とその拡大により勧農政策は後退し,また大農法も日本農業に浸透しなかった。80年代後半に井上馨やドイツ人マイエット,フェスカら少数の人たちが大農論を提唱したがそれも根づかず,大農法は,たとえば政商三菱の直営農場として発足した小岩井農場(1891設立)などの例外を除いて,成功しなかった。
執筆者:

中国では農業社会の確立に伴って神農・后稷(こうしよく)などの農業神話を生んだ。三皇の一人神農は民に耒耜(らいし)の製法などを教え,周の祖先とされる后稷は舜の農官であったという。こうした説話のなかに農業の重視と奨励の理念がうかがわれる。春秋戦国時代以後社会的分業が進むと,これを士農工商の四民に類別する政治体制が形づくられ,農は士についで重んぜられた。歴代の為政者が農業を重視するのは,食が人間生存の第一条件であっただけでなく,土に親しむ農民の純朴篤実な性質が社会秩序の維持に大きな役割を果たしたからでもあり,農を国の本とし,工商を末とする思想が強調された。勧農事業は民間の豪族や士人によっても進められたが,行政機関自体が勧農の機能をそなえていた点に,官僚制社会である中国の特徴がある。歴代政府は種々の農官を設けたが,勧農は一般の地方官の任務でもあって,その結果は彼らの成績にかかわった。勧農は〈勧課農桑〉などの語で呼ばれ,奨励と強制の両面を含んで行われた。農業技術の指導・普及,水利・農地の開発,農時における勤惰の点検,種子・農器・農地の支給,篤農家(力田)の表彰・優遇など,勧農事業の内容は多岐にわたるが,唐・宋以後,農民の土地離脱現象がはげしくなると,勧農使を地方に派遣して実情査察を行った。古くから行われた宮中の籍田,親蚕の儀式も勧農の意味あいをもち,宋~清時代《耕織図》がえがかれたのも同じ意味をもっている。
執筆者:

イスラム社会では勧農をイマーラ`imāraといい,これは元来居住や耕作を良好な状態にすることを意味した。イスラムの教えによれば,善政をしいてイマーラを行い,民生の安定と繁栄(マスラハ)を維持することは神の道にかなう行為(ハイル)であるとみなされる。また現実にも,イスラム国家の財政的基礎は,農民から徴収される租税にあり,歴代の政府は,水利機構の管理・維持につとめるなどイマーラに積極的な関心を示した。

 初期イスラム時代のカリフたちは有力者に荒蕪地(マワート)を授与し,これに3年間の免税特権を与えて耕地化を奨励したが,ウマイヤ朝(661-750)時代のイラク総督ハッジャージュ・ブン・ユースフはとりわけ熱心なイマーラの推進者として知られる。彼は都市に流入したペルシア人の新改宗者マワーリーを強制的に帰村させて国庫収入の低下を食い止めるとともに,水路を開削し農民を入植させることによって下イラクの広大な湿地帯の開拓に成功した。アッバース朝政府もこの政策を踏襲し,水利機構の管理や耕作の監督を各地に派遣した徴税官(アーミル)の業務にゆだねた。しかし10世紀半ばにイクター制が成立するとイマーラはイクター保有者である軍人の義務となり,政府の統制が弱いブワイフ朝下のイラクでは,イマーラを無視した収奪が行われたために多くの農村が荒廃に帰したといわれる。一方,アイユーブ朝(1169-1250)やマムルーク朝(1250-1517)治下のエジプト・シリアでは,地方総督(ワーリー)の監督下にイクター保有者によるイマーラが比較的順調に行われた。イクターの管理人は耕作に先立って農民に種子農料を貸与し,冬の農閑期には水路を開削・整備して生産力の維持に努めたのである。しかしイマーラを推進するためには安定した政治と多くの労働力が必要であったから,マムルークの派閥争いが激化し,ペストの流行によって人口が減少する14世紀半ば以降には,みるべき勧農政策は行われていない。イスラム諸国家にイマーラが復活し,揚水施設を改良して農地改革を実施するようになるのは19世紀以後である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「勧農」の意味・わかりやすい解説

勧農
かんのう

古代から近世にかけて、支配階級が行った農業生産の奨励政策をいう。古代や近世では公権力が勧農を行ったが、中世にあっては荘園(しょうえん)や国衙(こくが)領(郷(ごう)、保(ほ))を単位にして、個別の領地支配として行われた。中世の荘園の場合、具体的には次のようになる。京都や奈良に住む荘園領主(本家(ほんけ)、領家(りょうけ))から使者が旧暦2月上旬に現地の荘園に下向し、そこで現地の荘官(地頭(じとう)、下司(げし)、公文(くもん)など)とともに、農業生産の進行状況を確認しつつ、気候を占い、用水路整備作業のようすやその費用の認定をし、逃死亡農民の耕地を他の農民に配分し(散田(さんでん))、種籾(たねもみ)、労働費用を個々の農民に貸与し、荘園全体の税収入の予定額を算出する。これは、領主側による春の耕耘うん過程への積極的関与であり、農民側はこのような勧農に依存して農業(稲作)を遂行していた。国衙領においては、郡司(ぐんじ)、郷司(ごうじ)、保司(ほうじ)が地頭とともに勧農を行っていた。勧農は、中世の領地支配の根本である。

[山本隆志]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「勧農」の意味・わかりやすい解説

勧農
かんのう

農業をすすめ励ますこと。中国の漢代に太農丞 13人をおいたのが勧農官の初めであるといわれる。日本でも,律令制国家が,農民を氏族の支配から国家的支配下におくようになって以来,勧農政策が興り,麦,そば,桑など特定作物の奨励,稲機や水車の普及が初期の勧農の目標とされた。中世の荘園領主には固有の勧農政策はみられなかったが,戦国時代以降の領主層の勧農政策は,新田開発,裏作奨励,桑,漆,こうぞ,紅花,藍など特定作物の栽培と加工の奨励から専売制度の普及にいたる広範な展開を示した。とりわけ江戸時代中期以降は,こうした政策を支える技術の改良,普及も著しく,勧農の文字を冠した農書ないし地方書 (じかたしょ) が多く刊行された。明治政府はその初期の殖産興業政策の一環として,在来作物のほか外国品種の栽培を奨励したが実効はなく,1877年頃から新しい農業技術奨励策に置き換えられた。

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普及版 字通 「勧農」の読み・字形・画数・意味

【勧農】かん(くわん)のう

農事をすすめる。〔史記、文帝紀〕農は天下の本なり。~其の農のに於て未だ備はらず。其れ田の租を除け。

字通「勧」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の勧農の言及

【開発】より

…こうした前提条件のもとで,農民による小規模な〈百姓治田〉の開発と並んで,〈富豪の輩〉〈力田の輩〉と称された在地の有力者やそれと結ぶ院宮王臣家・寺社による大規模な開発が盛んとなり,荘園制の形成が促進された。10世紀以降の王朝国家期になると,中央政府より国内の支配を委託された国司は,基準国図に登録された公田に対して〈勧農〉を行い,公田の〈満作〉化のために開発・再開発を推進した。こうして荒野開発には,通常3ヵ年ないし4ヵ年の官物免除と雑公事免除などの特典が与えられ,かつその開発のために〈私功〉〈功力〉(種子農料などの開発資本)を投下した者をもって開発地の主(所有者)とする慣習法が12世紀には一般化した。…

【下地】より

…前者を下級所有(地頭職,名主(みようしゆ)職)とすれば,後者を上級所有(本家・領家職,加地子(かじし)職)とみなしうる。しかし実際には,年貢所当のみならず,課役も耕地面積別に課し,耕地と農民以下を統一的に把握する方向にむかい,そのために,本家,領家,地頭,預所(あずかりどころ)などの荘園の各級の領主らは〈厳重之百姓〉を土地に召し付け,勧農(農民の耕作地保有の固定や,それにもとづく経営安定化)政策を行い,彼らの間での相互の下地の進止権,つまり領主的土地所有確立をめぐる争いは激化する。御家人・地頭層を基盤として成立した鎌倉幕府は,1185年(文治1)の諸国地頭設置の勅許をもって〈諸国庄園の下地は,関東(鎌倉幕府)一向に領掌したもう〉(《吾妻鏡》)としたが,必ずしもその方針は貫徹せず,かえって本家・領家以下の荘園領主との対立を激化させた。…

【中世社会】より

…中世における土地所有の正当性の根源は,器量と職(しき)で表示される相伝の由緒であったが,それを認められたのは領主階級などの特定者であり,百姓は非職(ひしき)・非器(ひき)の仁(じん)とよばれ,正当な所有を認められなかった。所領内のなどを占有し,みずから農業経営を行う領主の勧農(かんのう)とよばれる行為が,浮浪人を招き,種子や農料を給付し土地を耕作させることであったことからもうかがわれるように,根本住人とよばれた土着の有力農民を除き,百姓の多くは土地を請作(うけさく)するのが基本的なものであった。鎌倉幕府の《御成敗式目》が定めた〈百姓の去留(きよりゆう)の自由〉は,このような百姓のあり方を前提にしていたといえる。…

【本所】より

…もちろん,《沙汰未練書》に〈本家トハ本領主御事也〉という規定もあるように,本家と本所がほぼ同様な意味合いで使われていることをすべて否定するものではない。 本所のもつ荘務権は,本来公領(国衙領)に対する国衙の支配権=国務を分割継承した権限で,(a)検田権,(b)勧農権,(c)検断権から構成されていたと考えられている。(a)検田権は,荘園内の田畠などを検注し耕地の所有関係の再編成などを行う権利で,土地領有の体制である荘園制にとって一番基本的な権限である。…

※「勧農」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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