伊治城跡(読み)これはるじようあと

日本歴史地名大系 「伊治城跡」の解説

伊治城跡
これはるじようあと

[現在地名]築館城生野大堀・同唐崎・同要害など

一迫いちはさま川左岸の城生野じようの集落一帯にわたる古代城柵跡。北を二迫にのはさま川が東流し、北東で両川は合流する。伊治はイジとも読む。「続日本紀」神護景雲元年(七六七)一〇月一五日条に、「伊治城作了」とある。当城造営ののち、関東諸国などから盛んに柵戸の移住を行い、体制を整えた。「続日本紀」神護景雲元年一一月乙巳条によれば、当城を核として栗原郡を建郡している。また同三年六月一一日条には「浮宕百姓二千五百余人」を伊治村に置くとある。宝亀一一年(七八〇)三月二二日条によれば、陸奥国上治郡(伊治郡の誤りとされる)の大領で蝦夷出身の伊治公呰麻呂が反乱を起こし、当時奥羽両国の最高責任者であった按察使の紀広純らを当城で殺害するといった事件が起きている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「伊治城跡」の解説

いじじょうあと【伊治城跡】


宮城県栗原市築館にある城柵(じょうさく)跡。築館(つきだて)丘陵の裾部にあたる河岸段丘に立地し、国府があった多賀城(たがじょう)の北方約50kmに位置する。律令政府による古代陸奥国経営の重要拠点の一つで、『続日本紀』によれば767年(神護景雲1)に設置され、9世紀まで存続した。蝦夷(えみし)から伊治郡(現在の栗原市)の有力者になった伊治砦摩呂(これはるのあざまろ)が、反乱を起こした城としても知られる。遺跡は南北約900m、東西約700mの範囲に広がり、儀式的な施設である政庁、実務的な官衙域である内郭、居住域外郭で構成され、柵跡遺跡としては稀少な事例の一つである。土器、瓦のほか、日本で初めて発見された中国式の弓「弩(おおゆみ)」が注目されている。東北地方における古代律令体制の成立や官衙の構造を具体的に知るうえで貴重な遺跡とされている。JR東北新幹線くりこま高原駅から車で約18分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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