本州の北東部を占める地域で、青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島の6県からなる。北は津軽(つがる)海峡を隔てて北海道と相対し、南は関東地方に、南西は中部地方に接する。大化改新(645)のころ、日本の中心からみて奥地を意味する道奥(みちのく)国とされ、その後、陸奥(むつ)国と書くようになり、出羽(でわ)国設置(712)後は両者をあわせて奥羽(おうう)、奥州とよぶこともあった。東北地方という呼称は明治以降のことである。なお、行政上や地域開発の観点から新潟県を東北地方に加えることもある。東北日本のうち、北海道は開拓が新しく、古い伝統や因襲を伴わず、近代以降産業、文化の急速な進展がみられたのに対し、東北地方は古くから開拓が進められたにもかかわらず、一時藤原氏の平泉(ひらいずみ)文化が開花したとはいえ、近世から現代に至るまで、絶えず冷害凶作にみまわれ、苦しい歴史を経てきた。日本の近代化が進むなかで、東北地方は農林水産業など第一次産業に偏って工業化が遅れ、食料と労働力を提供するという後進性から脱却することができなかった。第二次世界大戦後、農地改革を契機に東北地方の農業は大きく変貌(へんぼう)し、また全国総合開発計画による諸施策の効果もあがり、近代工業もしだいに定着してきた。その結果、人口、産業の過集積に悩む中央諸地域に比べ将来性が評価され、東北地方への遷都論さえ提唱されるようになった。
東北地方の面積は6万6950平方キロメートルで、全国総面積の17.7%を占め(2006)、人口は約963万人(2005)で、日本の総人口の7.5%を占め、1平方キロメートル当りの人口密度は143.9人で、全国平均338.1人の半分にも満たない。市町村数は286(2005年10月)で、そのうち市は73である。1989年政令指定都市となった仙台市には東北六県の管理機能が集中し、人口は102万人を数える。ほかに人口20万人を超える都市は県庁所在地の青森、盛岡、秋田、山形、福島の各市と、八戸(はちのへ)、郡山(こおりやま)、いわきの3工業都市がある。東北地方の都市の多くは、城下町、港町、市場町から発展したもので、明治以降に発達した釜石(かまいし)、郡山の工業都市、仙台市周辺の住宅都市的性格の強い岩沼(いわぬま)、名取(なとり)、多賀城(たがじょう)などの各市を除けば、近世の都市配置の骨格が現在もなお踏襲されており、東北地方の産業発展が遅れた一断面をみることができる。
[長谷川典夫]
南北に細長い東北地方は、地形的には南北に配列する3列の山地帯と3列の低地帯とにより6列の地形区に分けられる。太平洋側には北上(きたかみ)高地、阿武隈(あぶくま)高地の東部山地帯があり、中央には褶曲(しゅうきょく)山地の奥羽山脈があって、それに那須(なす)火山帯が並走し、両者の間には北上、阿武隈両河谷平野と仙台平野がある。日本海側には出羽山地、越後(えちご)山脈、鳥海(ちょうかい)火山帯が走り、奥羽山脈との間には弘前(ひろさき)、大館(おおだて)、横手(よこて)、新庄(しんじょう)、山形、米沢(よねざわ)、会津(あいづ)などの盆地列がある。また日本海側には津軽、能代(のしろ)、秋田、庄内(しょうない)などの沿岸平野地帯がある。奥羽山脈は東北地方の水系を東西に分ける大分水界であるが、全体として、南北に延びる列状の地形配置がこの地方の気候や交通網の形成に種々の影響を与えている。東北地方の地形的特色は多くの景観を生んでいる。太平洋側のリアス海岸には三陸復興国立公園(旧陸中海岸国立公園、旧南三陸金華山国定公園)があり、火山と温泉に富む奥羽山脈や出羽山地には、十和田八幡平(とわだはちまんたい)、磐梯朝日(ばんだいあさひ)、日光、尾瀬の国立公園と、蔵王(ざおう)、栗駒(くりこま)の国定公園がある。また、青森・秋田両県にまたがる白神(しらかみ)山地は世界遺産(自然遺産)に登録(1993)されている。
北海道に次いで北に位置する東北地方は年平均気温が低めで、北部の青森市で9.7℃、南部のいわき市小名浜(おなはま)で12.9℃と記録され、南北に長いためその差は3.2℃となっている。気温の南北差は冬にやや顕著であるが、夏にはほとんど差がない。しかし奥羽山脈を境に太平洋側と日本海側とでは気候の相違が明瞭(めいりょう)で、とくに冬の北西季節風の卓越する時期には日本海側の多雪、太平洋側の乾燥と、対照的な気候となるが、夏には中央盆地列や日本海岸の平野が太平洋岸よりむしろ高温となり、この夏の高温が東北地方の米作を支える大きな条件となっている。東北地方では一般に春の訪れが遅く夏が短いが、太平洋側の北東部では、春から夏にかけてオホーツク気団の影響で「やませ」とよばれる北東風の卓越することがあり、日照不足と低温により作物の冷害をおこすことがある。
東北地方は全体として温帯植物区に属し、トチノキ、クリ、カツラ、クルミ、シラカンバなどの落葉広葉樹と、ヒノキ、アスナロ、カラマツなどの針葉樹が代表的樹種である。暖地性常緑樹のタブノキは太平洋側では岩手県中部まで、日本海側では青森県南西部まで分布し自生の北限地をなしている。またヤブツバキ、オケラ、オキナグサなどは青森県が北限となっている。2000メートル内外の山地では高山植物が豊富で、各山地にその自生地がある。また栽培植物では、竹の栽培北限界が青森県を、茶の栽培北限界が宮城県を通っている。
[長谷川典夫]
産業別の就業人口率(1995)をみると、第一次産業12.9%、第二次産業31.0%、第三次産業55.9%となっており、全国平均の6.1%、31.4%、61.9%に比べ第一次産業の比率が高く、第三次産業の比率が低い。しかし第一次産業の比率は年々低下している。これを県内純生産でみれば、第一次産業の比率はさらに低率となり、生産性の低い第一次産業の比重が大きいことが、東北各県1人当りの分配所得で東京都の52.3~60.7%(1993)にとどまらざるをえない要因となっている。
東北地方6県の総耕地面積は94.1万ヘクタール(1995)で、全国の18.7%を占める。そのうち田(普通田、特殊田を含む)は70.1%で、全国比24.0%となる。とくに宮城、秋田、山形の3県の田の比率は高く、栽培技術の向上、品種改良、農作業の機械化などで日本の穀倉地帯を形成している。畑作では野菜、果樹、豆類、麦類、タバコなどが栽培され、果樹のうち青森県のリンゴ、福島・山形両県のモモ、山形県のブドウ、サクランボの生産高は全国でも高い比重を占めている。東北地方でも農家の兼業化が進み、1994年(平成6)の販売農家総数のうち専業農家は10.1%に過ぎず、1995年の新しい分類(主業農家、準主業農家、副主業農家)による主業農家は27.3%であった。一方、青森、岩手、秋田、山形の各県は出稼ぎ農家の多いことで知られるが、1993年の兼業従事者のうち、おもに出稼ぎに従事した者は東北地方では4万1000人を数え、日雇い、臨時雇いへの従事者も20万3000人にのぼった。
林野面積は465.5万ヘクタール(1990)で、東北全域の約70%を覆い、とくに青森のヒバ、秋田の杉、岩手のアカマツは良材として知られ、各地でブナも伐採される。
三陸沖は寒流と暖流がぶつかり、また北洋サケ・マス漁場を控え、太平洋岸の青森、岩手、宮城の3県ではとくに漁業が活発である。東北地方の総漁獲量は124.7万トン(1994)に達し、全国の13.4%を占める。サバ、スケトウダラ、カレイ、マグロ、カツオ、サンマ、イカなどを多く漁獲し、八戸、宮古(みやこ)、大船渡(おおふなと)、気仙沼(けせんぬま)、女川(おながわ)、石巻(いしのまき)、塩竈(しおがま)、小名浜(おなはま)などの漁港に水揚げされる。養殖漁業は陸奥(むつ)湾のホタテ、三陸海岸各湾のギンザケ、ホタテ、ノリ、ワカメ、カキ、ホヤ、松島湾のカキがよく知られている。
東北地方の鉱業は、かつては地下資源が豊富で、とくに奥羽山脈の第三紀の緑色凝灰岩とそれを貫く火成岩地帯には金、銀、銅、亜鉛、鉛などの鉱床があり、秋田県の小坂(こさか)、尾去沢(おさりざわ)の銅、宮城県細倉の鉛、亜鉛などのほか、岩手県松尾の硫黄(いおう)、岩手県釜石(かまいし)の鉄鉱、秋田県八橋(やばせ)の原油、福島県常磐(じょうばん)炭田などが著名であったが、第二次世界大戦後、鉱脈の枯渇、輸入鉱の増加、採算面での問題などから閉山したものが多い。現在の主要金属鉱山としては秋田県の花岡(はなおか)、釈迦内(しゃかない)、小坂などの鉱山があげられる。閉山した鉱山のなかには、細倉、尾去沢のように、マインパークや鉱山資料館として面影をとどめている地区もみられる。
1994年(平成6)の東北六県の総工業製品出荷額は16兆1448億円で全国のわずか5.4%にすぎず、そのうち福島・宮城両県で52.6%を占める。従来、東北地方の工業は、その土地に産出する資源に依存する資源立地型が多かった。八戸、大船渡のセメント工業、秋田のパルプ工業、釜石の製鉄業、宮古の化学肥料工業、港湾都市での水産加工業などのほか、豊富な電源を利用した特殊鋼や電気製錬業などがある。近年は輸入原料による化学、金属、石油精製、非鉄金属、紙パルプなどの工業が小名浜、仙台、八戸、秋田、酒田などの港湾都市を背後に立地するようになり、農村の労働力に依存する電気機器や繊維製品の工場も各地に進出している。しかし製造品出荷額で上位を占める業種は電気機器製造業と食料品製造業が群を抜いており、それに次ぐのは飲料・飼料、一般機械、金属製品、窯業・土石、化学工業製品などの製造業で多角化傾向がみられるとはいえ、資源と労働力に依存する従来の型からの脱皮はまだ十分とはいえない。
[長谷川典夫]
南北に並列する山地が交通網を支配する。JRでは南北方向に走る1891年(明治24)開通の東北本線をはじめ、常磐(じょうばん)線、奥羽本線、羽越本線などが主幹線となり、花輪線、田沢湖線、北上線、陸羽東線、仙山線、磐越西線が奥羽山脈を横切り、山田線、釜石(かまいし)線、大船渡(おおふなと)線などが北上高地を、磐越東線、水郡(すいぐん)線が阿武隈(あぶくま)高地を、陸羽西線、米坂(よねさか)線、磐越西線が出羽山地と越後(えちご)山脈をそれぞれ横切って平野や盆地を結んでいる。なお、国鉄の合理化対策として、久慈(くじ)、盛(さかり)、宮古の各線が第三セクターによる三陸鉄道に、丸森線が阿武隈急行に転換された。大畑(おおはた)線は民営鉄道に移行した後2001年(平成13)に廃止。また日中(にっちゅう)線、黒石線などのようにバス輸送に変わったものもある。山田線の宮古―釜石間は2011年3月の東日本大震災による被害が大きく、長期間復旧のめどがたたず、バスでの振替輸送を行っていたが、2019年3月に三陸鉄道へ移管されて営業を開始した。さらに東北新幹線盛岡―八戸間開通(2002)、八戸―新青森間開通(2010)に伴い、東北本線の盛岡―青森間が、第三セクターIGRいわて銀河鉄道(岩手県区間)および第三セクター青い森鉄道(青森県区間)に移管された。高速交通時代に対処して1971年(昭和46)に着工された東北新幹線は1982年6月大宮―盛岡間が開業、1991年(平成3)には東京駅乗り入れとなり、また、福島―新庄間、盛岡―秋田間も在来線を利用してミニ新幹線が東北地方を横断し、一方、1988年には、青函(せいかん)トンネルが開通し、北海道、東北、首都圏が直結、鉄道交通は新局面を迎えた。主要国道は鉄道に並走するものが多いが、東西方向を走る国道には山地の難所を切り開いたものが多い。首都と東北地方とを高速で結ぶ東北自動車道は川口ジャンクション―青森間、八戸自動車道は安代(あしろ)ジャンクション―八戸北間、常磐自動車道は三郷(みさと)ジャンクション―亘理(わたり)間が開通し、横断道としては、秋田自動車道(北上ジャンクション―二ツ井白神間、大館能代空港―小坂間)、磐越自動車道(いわきジャンクション―新潟中央間)や山形自動車道(村田ジャンクション―月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのさん)―鶴岡ジャンクション)が開通している。
海上交通のうち貨物輸送では、小名浜(おなはま)、仙台、塩竈(しおがま)、気仙沼、釜石、宮古、八戸、青森、秋田、酒田などの主要港で工業原材料や製品、雑貨などの搬出入を行っている。中距離・長距離フェリーは青函航路をはじめ、仙台、八戸と苫小牧(とまこまい)との間、および仙台―名古屋間などに運航されている。
航空交通では、青森、三沢、秋田、大館・能代、花巻(はなまき)、山形、庄内、仙台、福島に空港があり、札幌、東京、名古屋、大阪、福岡などと直結し、青森、花巻、仙台には国際定期便が就航している。
[長谷川典夫]
東北地方では近世以降、新田開発が活発であり、これに伴う仙台藩の河川の大改修(宮城県)や、鹿妻堰(かづまぜき)、寿庵堰(じゅあんぜき)(岩手県)、安積疎水(あさかそすい)(福島県)などの用水路の開削や三本木原(さんぼんぎはら)(青森県)の開拓などの諸工事が明治期まで行われている。明治政府は東北開発の拠点として1878年(明治11)から野蒜(のびる)(宮城県)に近代的港湾の建設を図り、道路網の整備を行ったが、1884年外港設備の損壊から、洋式港湾の建設は長崎に移され、政府の関心も東北開発から北海道開拓へと移ってしまった。その結果、明治・大正期から第二次世界大戦終結まで、東北地方は食料や労働力、兵士の供給地としての地位に甘んじなければならなかった。この間に、農村の二、三男対策としての開墾政策や、昭和初期の東北振興計画なども実施されたが、それも東北地方の後進性を払拭(ふっしょく)するものではなかった。
第二次世界大戦後の1950年(昭和25)、荒廃した国土を開発、保全し、経済の自立を目ざした国土総合開発法の特定地域が指定され、東北地方では北上、阿仁(あに)田沢、最上(もがみ)、只見(ただみ)の4地域が指定され、ついで十和田岩木川、北奥羽、仙塩の3地域が追加指定となった。これらは仙塩が工業基盤の整備を目標とするほかは、災害防止、資源開発などを柱とするもので、各地に洪水防止、発電、灌漑(かんがい)用など多目的ダムが建設された。また、1957年には東北開発促進法、東北開発株式会社法、北海道東北開発公庫法のいわゆる東北開発三法が成立し、東北地方の開発に対して資金援助が受けられるようになった。しかしその成果は満足すべきものでなかった。1963年、政府は全国総合開発計画に基づき、新産業都市を指定し、人口と工業の分散を図ることになり、東北では1977年に八戸、仙台湾、常磐郡山(じょうばんこおりやま)の3地区が、ついで秋田湾が追加指定され、港湾建設や工業用地の造成などが行われた。1968年の新全国総合開発計画では、東北地方を首都圏の北に続く大都市周辺圏と位置づけ、仙台を中核とした主軸開発方式によって東北新幹線や東北自動車道で首都圏と結ぶとともに、東北地方を食料供給基地と性格づけ、また、むつ小川原(おがわら)地区を大規模工業開発基地としている。1977年のオイル・ショックを契機に経済の安定成長期に対処する第三次全国総合開発計画が決定され、これに基づく定住圏構想から1980年には東北六県でも六つのモデル定住圏が設定された。ついで1987年の第四次全国総合開発計画では多極分散型の国土形成を基本目標としたが、これを引き継ぐ第五次の計画は、1998年(平成10)の政府案によれば「21世紀のグランドデザイン」とよばれ、多軸型国土構造への転換が提案されている。東北地方では北東国土軸と日本海国土軸の二つを地域連携軸として展開し、仙台を中心とした世界に開かれた都市機能の整備、自然と調和した生活・文化環境や観光レクリエーション機能の強化などがうたわれている。東北地方への首都機能の移転もこのような観点から期待されている。
[長谷川典夫]
東北6県の総人口は1950年(昭和25)の約934万人から1995年(平成7)には約984万人に増加、2005年には963万人に減少しているが、1995年までの5年置きの統計をみると、1950~1955年に23万人の増加を示したあとは1970年まで減少を続け、1975年にようやく20万人の増加をみ、1980年には957万人、1990年には974万人に達した。この間、一貫して増加したのは宮城県のみで、他の5県が増加に転じたのは1975年以降である。全国総人口に対する東北地方の構成比は1955年の10.5%からしだいに低下して1980年には8.1%、1995年には7.8%、2005年には7.5%となり、この間の人口流出の著しかったことを示している。人口増加が顕著なのは仙台市をはじめとする県庁所在地や主要工業都市、および仙台市周辺の住宅都市的機能をもつ諸都市である。このような人口増加の原因には都市への工業立地や第三次産業の集積があげられるが、全体としては人口流出が減って自然増加が表れてきたことも一因である。しかし農山村の人口は減少を続け、過疎地域や過疎現象が解消したとみることはできない。
[長谷川典夫]
東北地方に人類がいつごろから住み着いたかは明らかではない。しかし日本各地で発掘される打製石器や、縄文土器、弥生(やよい)土器も発見されており、先住民族が東北地方にも居住していたことは明らかである。青森市西部の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)からは約4500年前の巨大な木柱その他が出土し、縄文前期~中期の大集落の跡と考えられている。2~3世紀ごろには仙台平野を中心に水田農業が行われていたとみられる。この地方に住む蝦夷(えみし)は大和(やまと)国家によってその支配下に置かれるようになる。大化改新以後、律令(りつりょう)国家による国郡制が定められて道奥国と称されるようになり、兵と農民による開拓が強力に進められた。ついで大宝(たいほう)律令制定(701)のとき陸奥国と改められ、日本海側の出羽国とともに東山道に属した。
奈良時代には蝦夷経営の拠点として多賀城(宮城県)と秋田城が築かれ、これを結ぶ線上に払田柵(ほったのさく)、色麻柵(しかまのき)などが設けられた。蝦夷に対して同化政策がとられたが、奈良時代の末期には蝦夷が各地で反乱を起こしたので、その征討のため征夷(せいい)大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が派遣された。彼は蝦夷の本拠地の胆沢(いさわ)(奥州市)を落とし、胆沢城、志和(しわ)城を築いた。11世紀になって安倍(あべ)・清原(きよはら)・藤原氏らの豪族が台頭したが、安倍氏は源頼義(よりよし)に、清原氏は源義家(よしいえ)に滅ぼされ、平泉で3代にわたり栄華を誇った藤原氏も1189年(文治5)源頼朝(よりとも)の奥州攻めによって滅亡した。以後東北地方は鎌倉幕府に従属することとなり、千葉、葛西(かさい)、畠山(はたけやま)氏らの鎌倉武士が東北地方に所領を得た。鎌倉末期から室町時代にかけては群雄の割拠するところとなったが、戦国時代には伊達(だて)氏が奥州第一の大名となった。関ヶ原の戦い以後、東北地方も江戸幕府の厳しい支配下に置かれ、津軽氏(青森)、佐竹氏(秋田)、南部氏(岩手)、伊達氏(宮城・岩手)、松平氏(福島)、上杉氏(山形)らの大名が配置された。城下町の建設や新田開発が行われ、参勤交代に往復する主要街道には多くの宿場町が発達した。産業としては、秋田藩の小坂、阿仁(あに)の銅山、盛岡藩の製鉄、馬産、会津藩や米沢藩の養蚕や織物などが注目された。
明治維新に際しては、諸藩は奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を締結して奥羽鎮撫(ちんぶ)使に対抗したが、やがて悲劇的な結末となり、賊軍の汚名を冠せられた。このことは、以後の東北の発展にも、東北人の中央での活躍にも大きな足かせとなった。明治政府は東北経略の意図から野蒜(のびる)(宮城県)に大規模な築港を計画したが、これに失敗したのちは開発の重点は北海道に移され、1891年(明治24)に全通した東北線も北海道への連絡路としての性格が強く、以後東北地方は北海道への通り道としての地位に甘んじてきた。
第二次世界大戦後、農地改革を契機に、強固な地主小作制度下にあった東北地方の農村も大きく変貌(へんぼう)した。また国土総合開発や工業化によって所得水準の向上も図られたが、なお生活基盤や産業基盤は脆弱(ぜいじゃく)であり、人口流出などの問題点を多く抱えている。戦後50年の国土開発にみられた食糧基地論や工業化玉条論を清算し、自然豊かな環境下での新しい生活空間づくりが模索されるべき時代に入ったといえよう。
[長谷川典夫]
東北地方には旧風を伝える民俗習俗が多く残り、民俗の宝庫といわれるが、それはいわば袋小路的な地理的条件によるものである。柳田国男(やなぎたくにお)が岩手県遠野市一帯の口頭伝承を綴(つづ)った『遠野物語』(1910)の序文に「我(わが)九百年前の先輩今昔物語の如(ごと)きは其(その)当時に在りて既(すで)に今は昔の話なりしに反し此(これ)は是(これ)目前の出来事なり」と記していることでも知られる。
東北地方にはイタコ、オガミサマ、オナカマ、ワカなどとよばれる死者のことばを伝える盲目の口寄せ巫女(みこ)がいまなお各地で巫業(ふぎょう)を営んでいる。彼女らは12、13歳で師匠につき、2、3年修業する。経文や祭文を修得し、厳しい潔斎ののち、ウツシソメという成巫儀礼を受け呪具(じゅぐ)を授与され、縄張りを獲得して巫業を営む。巫術(ふじゅつ)は、弓や一絃琴(いちげんきん)をたたきながら祭文を唱え、忘我状態となって依頼者に死者のことばを伝える。依頼者の求めによっては、災いを祓(はら)うオッパライや安産を願うエナバライなども行っている。福島県の羽山(はやま)ごもりは、ノリワラとよばれる者に神が憑(つ)き、農耕の豊凶を託宣する。
同族集団の守護神として、各地の旧家にオシラサマが祀(まつ)られている。この神は一対の執物(とりもの)が神体とされたものと考えられるが、一族の女性たちによってオシラサマアソバセという祭りがあり、招かれた巫女が神の託宣をする。岩手県中央部には太子像や阿弥陀如来(あみだにょらい)像の掛軸がマイリノホトケとよばれ、先祖の命日には一族が本家に集まって祭事を行う。古くは葬列の先頭に掲げたという。やはり家の守護神として、台所の柱に祀るカマガミがある。木製や土製の恐ろしい人面で、旧仙台領に限られて分布している。
年越しの夜の供物のなかに、秋田県ではニダマ、岩手・宮城県ではミダマとよばれるものがある。膳(ぜん)や箕(み)の上に12個の握り飯か餅(もち)を並べ、同数の箸(はし)を添え、神棚や仏壇に供える。ミダマは御魂で、盆行事とともに年越しの夜にも先祖の霊を祀った古風を伝えている。秋田県男鹿(おが)半島のなまはげ行事は民俗習俗のなかでも重要なもので、本来は小(こ)正月行事であり、仮面仮装の若者たちが群行して家々を訪れ、女性や子供を威喝し、祝福を与えることばを述べ、家人から饗応(きょうおう)を受ける行事で、正月の神の来臨する姿の行事化である。同種の行事は山形県遊佐(ゆざ)町のアマハゲ、岩手県閉伊(へい)地方のナゴミタグリ、同県大船渡(おおふなと)市三陸町のスネカ、宮城県加美(かみ)町柳沢の焼け八幡(やけはちまん)、同町の裸カセドリなどがあり、能登(のと)半島のアマメハギ(アマミハギ)や南西諸島の同類の行事に連なっている。2月初旬に行われる岩手県一関(いちのせき)市の水掛け祭りや宮城県登米(とめ)市の水かぶりは、裸の若者たちに水をかけることから、火伏せの行事とされるが、正月でなくとも春の初めの行事であり、なまはげと同種と考えられる。青森県のカパカパや山形・宮城・福島県などのカセドリは、現在では子供たちの小正月の物ごい遊びになっているが、顔を隠して唱え言をするなど、この行事の基本的な内容は残している。秋田県横手市のカマクラも、小正月につくる鳥追い小屋が、雪洞につくられたものである。なお、なまはげは「男鹿のナマハゲ」、アマハゲは「遊佐の小正月行事」、スネカは「吉浜(よしはま)のスネカ」、アマメハギは「能登のアマメハギ」、水かぶりは「米川(よねかわ)の水かぶり」として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産「来訪神:仮面・仮装の神々」の一部を構成している。
観光化されているが青森市や弘前(ひろさき)市のネブタ、秋田県の竿灯(かんとう)、仙台市の七夕(たなばた)などは、盆行事の7日前の祓いの要素を残しており、伝統的な行事を引き継いだものである。山形県の出羽三山(月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん))は羽黒派修験(しゅげん)の本拠として栄え、岩木山(青森)、早池峰(はやちね)山(岩手)、鳥海山(秋田、山形)、蔵王山(山形、宮城)、飯豊山(いいでさん)(山形、福島)、霊山(りょうぜん)(福島)など多くの霊山があり、山岳信仰を背景とする修験道の聖地とされ、彼らの教理は山麓(さんろく)の民間信仰に大きな影響を与えてきた。
青森県下北(しもきた)半島の恐山(おそれざん)は、火山による奇怪な景観から地獄、極楽が連想され、死者の霊がとどまる山としての信仰があり、山上の円通寺(曹洞(そうとう)宗)の7月の法会(ほうえ)には、多くの登拝者を集め、死者供養が行われる。近年の風ではあるが、法会に近郷のイタコが集まり、参拝者の求めに応じての口寄せは盛況をみせている。山形市の山寺(やまでら)とよばれる立石寺(りっしゃくじ)(天台宗)は慈覚大師の開基と伝えられる名刹(めいさつ)であるが、全山奇岩怪石が累々とし、奥の院にはおびただしい数の塔婆がみられ、死者霊の集まる山として死者供養のために参詣(さんけい)する者が多い。山形県鶴岡(つるおか)市近郷の森ノ山は、盆に山麓の人々が登って森供養とよばれる死者を供養する習俗がある。宮城県登米市の弥勒寺(みろくじ)(真言宗)は水田に囲まれた丘の上にあり、盆の15日夜の法会には近在からの参詣者でにぎわう。「3年弥勒寺詣(まい)りをすると死者に会える」といい、参詣人のなかに死んだ家族に似た者がいると、無理にも誘ってもてなす風があり、死者と邂逅(かいこう)することのできる山との信仰を伝えている。
[三崎一夫]
柳田国男(やなぎたくにお)が『遠野物語』(1910)を上梓(じょうし)して以来、東北地方の民話は人々の注目するところとなった。東北の伝承資料は質、量ともに優れて豊かである。話者のなかには100話を語る翁(おきな)、媼(おうな)も珍しくない。
口頭伝承は、寒冷な風土ほどきわめて濃密な分布をみる。これは、いろり端(ばた)で暖をとり、仕事に励み、その火を中心にして祭りや行事を行ってきた人々の暮らしと深くかかわる現象である。東北の各地に残される昔話がきわめて古いとされている原因は、いろりの端で行われたハレの日の古い形態の語りが、そこに残されるからであろう。農耕儀礼と深く結ぶ昔話が多いのは、語りが農作、ことに稲作農耕に密着した機能をもっていたからである。
昔話は、いろり端にあって特定の約束事をもつ。語る順序や語る作法が厳しく求められ、「昼むかし」の戒めをもっている。動物昔話、継子譚(ままこばなし)がとくに好まれ、雪国ならではの「雪女房」、「尻尾(しっぽ)の釣」などが語られる。伝説も多い。弘法(こうぼう)大師や、義経(よしつね)、弁慶、海尊(かいそん)、小野小町、皆鶴姫や中将姫など巡国の主人公を語る例が多い。これらは、山岳宗教が盛んな東北にあって、寺社を中心に往来した宗教者の影響によるのであろう。山伏、座頭(ざとう)、神人(じにん)、巫女(みこ)、比丘尼(びくに)などが管掌した語りを、村人が聞き覚えて定着させたものとする見方が一般的である。
これらの外来者と流れを異にする民話の伝播(でんぱ)者に、江差(えさし)の「繁次郎(しげじろう)話」を語る出稼ぎ人がある。東北地方海岸部に分布するこの笑話は、北海道のにしん場を渡り歩いたヤン衆(しゅ)の運んだ話である。狡猾(こうかつ)な知恵者を主人公としておもしろく語り、下北半島から秋田、東北地方南部の海村まで広くに語られている。山間部にあって笑いを伝えるものに会津の「南山(みなみやま)話」がある。愚人譚(たん)であるが、里で暮らす者が山里の人を嘲弄(ちょうろう)する仕組みになっている。風俗習慣の違いを揶揄(やゆ)するものである。
東北地方は古くから開かれた良港が都の文化の取り入れ口であった。今日、東北にある語り物や昔話のなかには、「小栗判官(おぐりはんがん)」などのように、京、上方(かみがた)の草子類の強い影響を受けたと思われるものがみられる。
[野村純一]
『森嘉兵衛ほか著『郷土の歴史 東北編』(1959・宝文館)』▽『『日本地理風俗大系 東北地方』(1960・誠文堂新光社)』▽『『図説日本文化地理大系 東北Ⅰ・Ⅱ』(1961・小学館)』▽『『風土記日本 東北・北陸篇』(1958・平凡社)』▽『『日本の地理 東北編』(1961・岩波書店)』▽『大明堂編集部編『新日本地誌ゼミナール2 東北地方』(1984・大明堂)』▽『日本地誌研究所編『日本地誌3~4巻 東北地方』(1981、1982・二宮書店)』▽『高橋富雄著『東北の風土と歴史』(1976・山川出版社)』▽『豊田武編『東北の歴史』上中下(1967~1979・吉川弘文館)』▽『原田実ほか編『みちのく伝統文化』全5巻(1986・小学館)』▽『『日本地名大百科』(1996・小学館)』▽『網野善彦ほか編『日本民俗文化大系 全14巻・別巻1』(1994・小学館)』▽『野村純一著『昔話の森』(1998・大修館書店)』
本州北東部に位置する地方。青森,岩手,宮城,秋田,山形,福島の6県からなる。東西の幅は最大約170km,南北は最大約410km,面積は約6万6951km2で全国の18%を占めるが,人口は934万人(2010)で7%を占めるにすぎない。古代には,〈みちのく(道の奥)〉と呼ばれ,政治や文化の中心からは僻遠の地であった。大化改新以後,日本海側に出羽国,太平洋側に陸奥国がつくられ,東山道に属した。両国の総称として奥羽,あるいは奥州と呼ばれたこの地域は,当時の他の国々と比べ著しく大きな国で,その後12世紀にわたってこの2国制が続いた。古代の城柵は日本海側では高清水(現,秋田市),太平洋側では多賀城(現,宮城県多賀城市)に置かれ,蝦夷経営の拠点となった。1868年(明治1)に出羽が羽前・羽後両国に,陸奥が陸奥,陸中,陸前,岩代(いわしろ),磐城(いわき)の5国に分けられ,71年に秋田,福島の両県,76年に青森,岩手,宮城,山形の4県の県域が確定した。東北地方の呼称は明治以降に使われだしたが,奥羽地方の名称より一般化したのは,第2次大戦以後のことである。
→出羽国 →陸奥国
本州の中では春が遅く,冬が早く来る。主稜線の標高1000m以上の奥羽山脈が中央部を南北に走り,八甲田山,岩手山,栗駒山,蔵王山,吾妻(あづま)山などの火山が重なるところでは標高2000m内外を示す。これに並行して東側に北上高地,阿武隈高地,西側に出羽山地が連なるため,阿武隈川,最上(もがみ)川,雄物川などおもな河川の流路や,おもな盆地の配置もほぼ南北方向を示す。奥羽山脈が季節風に直交するため冬季の日本海側は雪が多く,太平洋側は乾燥した晴天が多い。夏季にはフェーン現象によって日本海側や阿武隈・北上両高地の西側の盆地では著しく高温になる。最高気温の記録では山形市の40.8℃(1933年7月),酒田市の40.1℃(1978年8月)がある。また梅雨の時季から夏にかけて吹くオホーツク高気圧からの北東風〈やませ〉が長期にわたると太平洋岸の各地に異常な低温をもたらし,冷害をひきおこす。平地は日本海側では秋田平野,庄内平野,出羽山地内の大館(おおだて),横手,新庄,山形などの諸盆地,太平洋側では仙台平野と北上,福島,郡山盆地などがそれぞれ独立して存在する。
東北地方に稲作農業が成立するのは7世紀ころからで,江戸時代までにはこれらの平地のほぼ全域に広まった。諸藩は河川の下流の低湿地の干拓や,灌漑用水路の開削による扇状地や段丘の水田化に積極的に努力したため,米の生産はこの時期に著しく増大した。江戸時代,内陸の物資の輸送は北上川,最上川,雄物川,阿武隈川などの舟運によるのが一般的で,馬による運搬は産地から河岸までと,急流で舟運が断たれた部分のみであった。各河口港に集められた米は日本海側の西廻海運と太平洋側の東廻海運により,大坂と江戸に大量に輸送され,東北地方は食糧供給基地としての性格が生じた。稲作地域が拡大したとはいえ,東北地方はしばしば冷害におそわれ,また各藩の間の物資輸送が困難であったため,天明,天保の飢饉の際に多くの餓死者を出した。明治以降も1934年の東北凶作など冷害は起こったが,近年は耐寒性の品種の育成や,稲作技術の改善によって被害は緩和された。しかしたび重なる冷害は東北の農民の貧困の大きな原因となってきた。
東北地方は,水稲作付面積が全国の25%(1995)を占める米作地域で,水田率は70%にのぼり,宮城県中部以北では裏作が困難で,土地の生産性は低い。近世以来盛んであった養蚕は第2次大戦後,タバコやリンゴ,ブドウ,モモ,オウトウ(桜桃)などに転換された。北上高地で古代以来盛んであった馬産は,近年酪農や肉牛飼育に転換されている。また,地元での労働市場の狭いことなどから,東北地方は出稼ぎが多いところとして知られる。かつては酒造出稼ぎ(杜氏(とうじ))や北海道へのニシン出稼ぎが多かったが,高度経済成長期以降,大都市の土木建設などへの出稼ぎが増加している。林業では,自然林がまだ広く残り,秋田杉や津軽ヒバは良質なことで知られる。水産業は三陸沖漁場をひかえ,塩釜,気仙沼,釜石,宮古の大漁港が,沖合漁業や遠洋漁業の基地となっている。鉱業では,古くから陸奥国各地での砂金や,南部地方での砂鉄が知られてきた。明治以降は秋田県鹿角(かづの)地方の銅,岩手県釜石の鉄,宮城県細倉の鉛などの鉱山が栄え,福島県常磐地区では炭田開発,秋田県の海岸では油田開発が進められた。秋田県鹿角(かづの)地方の小坂,花岡,釈迦内鉱山は,銅,鉛,亜鉛などの生産高では全国に占める割合が大きかったが,1985年以降の急激な円高などによって衰退し,すべて休山・閉山してしまった。
明治維新当時の交通は舟運が中心で,港としては河口港と河岸,および河口港に比較的近い風待港が発達していた。明治政府は全国的に幹線鉄道の建設をはじめるとともに,東北地方の後進性の脱却を目指して洋式港を仙台湾の鳴瀬川河口の野蒜(のびる)に建設しはじめたが,1884年の台風で防波堤が破壊され,築港計画は放棄された。東北地方の交通は,奥羽山脈が障害となるため,南北方向の発達が著しい。山脈の東側に現在の東北本線上野~青森間が1891年全通,西側には1905年奥羽本線福島~青森間が全通して東西の幹線が整った。08年には国鉄青函連絡船が就航して,青森港が北海道との重要な結節点となったが,88年3月青函トンネルが開通し,連絡船は同年4月までで廃止された。日本海岸沿いには24年羽越(うえつ)本線新津(にいつ)~秋田間が全通し,東北地方の鉄道は東京,関西方面と北海道との連絡の役割をもつようになった。奥羽山脈を横断する鉄道の建設は著しく遅れ,陸羽東線の開通が初めで1917年,ほぼ現在の鉄道網が完成したのは昭和10年代に入ってからのことである。これら鉄道網の建設によって舟運は急速に衰え,河岸は機能を失い,河口港は漁港に変質した。
明治初期,各地に立地した製糸業に続いて,恵まれた地下資源を生かした岩手県釜石の製鉄業,秋田県北部の銅精錬業,青森県八戸(はちのへ)のセメント製造業などが興ったが,大正末まではほかに大規模な近代工業は立地しなかった。昭和の初期に工業開発政策がとられ,半官半民の東北振興株式会社によって,八戸,盛岡,一関,石巻,仙台,秋田,酒田,新庄,福島などに,繊維,窯業,化学,紙・パルプ,機械工業などの比較的大規模な工場の立地がみられた。しかし,それを契機として東北地方の工業化が進展する傾向はみえず,依然として第1次産業を主体とする産業構造は変わらなかった。第2次大戦の直前に軍需工場や軍の工厰が郡山(こおりやま),小名浜(おなはま),仙台,多賀城に設置されたのに加えて,戦争中には京浜・阪神両工業地帯からの疎開工場が各地に多く立地した。しかし戦後,食糧事情が安定するにつれ,疎開工場の大部分は元にもどってしまった。
国土総合開発にあたって,東北地方では1950年に北上地域ほか4特定地域が指定され,52年には3地域が追加された。この指定によって北上川,只見川などの流域に多くの多目的ダムが建設され,農業災害は緩和され,水田開発も進んだが,発電による工場誘致に進まなかった。さらに50年代の下北大規模機械開墾,60年代の岩木山,八甲田山など火山山麓の開拓や,八郎潟干拓地の新農村建設など,農業への投資が積極的に行われたが,1950年からの朝鮮戦争による四大工業地帯の急速な復活とそれに続く東海道沿いおよび瀬戸内海沿岸の工業化の進展によって,農業と工業との間の所得の差に基づく地域格差が増大し,東北地方からの人口流出は激化した。
63-64年に東北地方では八戸,仙台湾臨海,常磐郡山,秋田湾の4ヵ所の新産業都市が指定された。しかし面期的な工業化はなく,製造品出荷額では東北6県全体で16兆8050億円(1995),全国の5.5%にすぎない。第3次全国総合開発計画では若年労働力のUターンを目標として,弘前,能代,新庄,一関,古川,会津若松の各市を中心にモデル定住圏が指定されたが,目覚ましい変化はない。従来の交通動脈に並行して東北新幹線が82年盛岡まで開通し(2002年盛岡~八戸間が開業),1992年には奥羽本線の福島-山形間を改軌して山形新幹線,97年3月には田沢湖線を改軌して秋田新幹線が開通した。高速自動車道では東北自動車道が86年,八戸自動車道が89年開通,97年8月現在,秋田自動車道,山形自動車道,磐越自動車道がほぼ完成している。これら新しい交通動脈と新産業都市やモデル定住圏を核として東北地方の工業化も徐々に進展するであろう。
開発の遅れた反面,複雑な海岸線や多くの火山,温泉などの自然に恵まれ,日本三景の一つ松島をはじめ陸中海岸,十和田八幡平,磐梯朝日の3国立公園,鳥海など4国定公園があり,また8月上旬の仙台七夕,青森ねぶた,秋田竿灯(かんとう)は東北の三大夏祭として知られ,多くの観光客を集めている。東北地方には,出羽三山の修験道や恐山の地蔵信仰,各地の〈いたこ〉や〈オシラサマ〉など古俗を伝える信仰や,馬屋と主屋が棟つづきの曲屋(まがりや)など特有の民家,古来の農耕儀礼や祭事・芸能,素朴な方言によって語られる民話など,他の地方では薄れつつある習俗が今なお豊かに残されている。
執筆者:田辺 健一
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…そして縄文晩期,西北九州に稲作の技術が伝播したのを契機に始まる弥生文化が西日本に急速に広がったのに対し,東日本がしばらく縄文文化にとどまったことは,この差異をさらに著しいものにした。
[〈東国〉の範囲]
西日本には水田を基礎とする国家が東日本に先んじて形成され,やがて畿内を基盤とする政権が日本列島の主要部に影響を拡大し,東北北部を除く東日本もその影響下に入るが,この政権を構成する人々は,東日本を〈あづま〉〈東国〉といっており,それはまず関東・東北地方を意味していた。しかし〈東歌(あずまうた)〉のとられた範囲,防人(さきもり)の動員された地域からみると東国はさらに広く,縄文・弥生時代の東日本とほぼ一致する越後・信濃・三河以東の地域を指すことが多く,事実この地域は言語,民俗においても西日本と異質なものをもっていた。…
※「東北地方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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