伊藤敦子(読み)イトウ アツコ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「伊藤敦子」の解説

伊藤 敦子
イトウ アツコ


職業
声楽家

専門
ソプラノ

生年月日
明治35年 1月15日

出生地
岩手県 和賀郡小山田村(花巻市)

学歴
盛岡高女卒 東京音楽学校(東京芸術大学)〔大正12年〕卒

経歴
大正3年盛岡高女(盛岡二高)に入学、音楽教師に才能を見い出される。7年東京音楽学校(東京芸術大学)に進学、イタリア留学を志すが両親の反対にあう。12年同校を卒業後、昭和5年頃までに2度結婚し、2児をもうける。9年藤原義江が主宰する藤原歌劇団の旗揚げ公演「ラ・ボエーム」のミミ役に抜擢されデビュー。その後、「カルメン」「蝶々夫人」などでもプリマドンナを演じ、日本の代表的ソプラノ歌手となる。12年イタリア・ローマに渡り、イタリア人外交官と結婚。ミラノスカラ座を拠点に欧州で「蝶々夫人」など500回以上出演し、世界的声楽家として活躍した。第一線を退いてからは日本人留学生の世話に熱心で、国際的オペラ歌手の林康子らと交流があった。61年2月一度も日本に帰ることなくミラノで死去。兄・伊藤九万一は盛岡一高の校歌作詞者として知られる。

没年月日
昭和61年 2月28日 (1986年)

伝記
伊藤敦子・望郷のミラノ―スカラ座を夢見たオペラ歌手の生涯 千厩 ともゑ 著(発行元 沢田出版,民衆社〔発売〕 ’07発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「伊藤敦子」の解説

伊藤 敦子
イトウ アツコ

昭和期の声楽家(ソプラノ)



生年
明治35(1902)年1月15日

没年
昭和61(1986)年2月28日

出生地
岩手県和賀郡小山田村(現・東和町)

学歴〔年〕
盛岡高女卒,東京音楽学校(現・東京芸術大学)〔大正12年〕卒

経歴
大正3年盛岡高女(現・盛岡二高)に入学、音楽教師に才能を見い出される。7年東京音楽学校(現・東京芸術大学)に進学、イタリア留学を志すが両親の反対にあう。12年同校を卒業後、昭和5年頃までに2度結婚し、2児をもうける。9年藤原義江が主宰する藤原歌劇団の旗揚げ公演「ラ・ボエーム」のミミ役に抜擢されデビュー。その後、「カルメン」「蝶々夫人」などでもプリマドンナを演じ、日本の代表的ソプラノ歌手となる。12年イタリア・ローマに渡り、イタリア人外交官と結婚。ミラノ・スカラ座を拠点に欧州で「蝶々夫人」など500回以上出演し、世界的声楽家として活躍した。第一線を退いてからは日本人留学生の世話に熱心で、国際的オペラ歌手の林康子らと交流があった。61年2月一度も日本に帰ることなくミラノで死去。兄・伊藤九万一は盛岡一高の校歌作詞者として知られる。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤敦子」の解説

伊藤敦子 いとう-あつこ

1902-1986 昭和時代のソプラノ歌手。
明治35年1月15日生まれ。昭和9年藤原歌劇団旗揚げ公演「ラ・ボエーム」の主役ミミでデビュー。のち「カルメン」「蝶々夫人」のプリマドンナをつとめる。12年イタリアにいき,同国外交官フォロモーソと結婚。スカラ座を中心にヨーロッパ各国で活躍した。昭和61年2月28日死去。84歳。岩手県出身。東京音楽学校(現東京芸大)卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

戒厳令

一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...

戒厳令の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android