住吉庄
すみよしのしよう
初見は「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条で、年貢未済庄々の中に「院御領住吉庄」とある。その後建久三年(一一九二)には長講堂領になっている(大徳寺文書)。この頃の荘域についての確実な史料はないが、現三郷村楡には住吉庄の鎮守の住吉神社があり、また長尾(現三郷村)の平福寺には藤原時代の聖観音像がある。横沢(現梓川村)の薬師堂には藤原時代の薬師如来像があり、土師器・須恵器の皿・杯・甕なども多数出土し、住居跡もあるので、黒沢川の恵みで古くから集落が開けていたことが推測されている。
江戸時代以前に開削された堰には、長尾堰・温堰・庄野堰・横沢堰などがあるが、これらのうち庄野堰は住吉庄の堰ということから命名された堰のように考えられることから、現梓川村倭、三郷村明盛一帯に開発が拡大されていったものと推測される。文明八年(一四七六)下諏訪春秋両宮御造宮帳(諏訪大社上社文書)、明応一〇年(一五〇一)三宮穂高社御造宮定日記(穂高神社蔵)、天正七年(一五七九)下諏訪春宮造宮帳(諏訪大社上社文書)にはいずれも住吉庄の郷村として、大妻(現梓川村)・長尾・二木・楡・久木(以上現三郷村)、戸間・真々部・飯田・熊倉・中曾根(以上現豊科町)・氷室(現梓川村)・及木(現三郷村)・角懸・杏(以上現梓川村)・成相・唐笠木・寺所(以上現豊科町)・中萱(現三郷村)・横沢(現梓川村)がみえる。
住吉庄
すみよしのしよう
現住吉地区一帯に比定される。住吉神社の社領をよんだと考えられる。貞応三年(一二二四)以後と推定される宣陽門院領目録(島田文書/鎌倉遺文五)に「筑前国住吉庄本庄井庄埋浜方」とみえ、伯母上西門院(統子内親王)から譲られた新御領で、承久の乱でいったん鎌倉幕府に没収されたのち宣陽門院に戻されている。鎌倉期と思われる年月日未詳の六条殿修理料支配状案(八代恒治氏旧蔵文書/兵庫県史 資料編中世九)によれば、京都楊梅小路に面した六条殿(長講堂)の築垣修復のため長さ八寸の材木二本を供出している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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