佐々木 良作
ササキ リョウサク*
- 肩書
- 元・衆院議員(民社党),元・民社党委員長
- 別名
- 筆名=佐々木 良素
- 生年月日
- 大正4年1月8日
- 出生地
- 兵庫県養父郡八鹿町
- 学歴
- 京都帝国大学法学部〔昭和14年〕卒
- 経歴
- 昭和14年日本発送電に入社。電産労組の初代書記長、副闘争委員長となる。22年に参院選に無所属で出馬し、全国区第8位で当選。27年電産の分裂で参院選再出馬を断念。同年電源開発会社の総務部長に就任、29年退社。30年郷里の兵庫5区から衆院選に右派社会党代議士として当選。34年同党の分裂騒動で、民社党創設に参加。以来、同党の国対委員長、書記長、副委員長を歴任し、52年11月第4代委員長に就任、理論面での指導者として、野党連合や与野党連合の構想を具体化した。60年退任。衆院当選12回。平成2年引退。民社協会顧問。
- 没年月日
- 平成12年3月9日
- 家族
- 兄=升本 喜兵衛(中大総長) 弟=佐々木 剛(洋画家)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
佐々木 良作
ササキ リョウサク
昭和・平成期の政治家 元・衆院議員(民社党);元・民社党委員長。
- 生年
- 大正4(1915)年1月8日
- 没年
- 平成12(2000)年3月9日
- 出生地
- 兵庫県養父郡八鹿町
- 別名
- 筆名=佐々木 良素
- 学歴〔年〕
- 京都帝国大学法学部〔昭和14年〕卒
- 経歴
- 昭和14年日本発送電に入社。電産労組の初代書記長、副闘争委員長となる。22年に参院選に無所属で出馬し、全国区第8位で当選。27年電産の分裂で参院選再出馬を断念。同年電源開発会社の総務部長に就任、29年退社。30年郷里の兵庫5区から衆院選に右派社会党代議士として当選。34年同党の分裂騒動で、民社党創設に参加。以来、同党の国対委員長、書記長、副委員長を歴任し、52年11月第4代委員長に就任、理論面での指導者として、野党連合や与野党連合の構想を具体化した。60年退任。衆院当選12回。平成2年引退。民社協会顧問。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
佐々木良作
ささきりょうさく
[生]1915.1.8. 兵庫
[没]2000.3.9. 東京
政治家。京都大学を卒業し,1939年日本発送電に入った。第2次世界大戦後労働運動に身を投じ,日本電気産業労働組合 (電産) 副委員長となる。 47年4月参議院全国区から当選,55年から衆議院に転じ,以来連続当選 12回。初め革新系無所属,のち社会党右派に属したが,60年民主社会党結成に参加した。 69年2月同党書記長,73年 10月病気のため辞任したが,75年2月副委員長となる。 76年「新しい日本を考える会」の発起人となり自民・共産両党を除く中道革新結集を提唱,77年 11月,春日一幸辞任のあとの民社党第4代委員長に就任し,その後は公明党・新自由クラブ・社民連との中道勢力の結集を提唱,さらに 83年暮の総選挙で自民党が過半数を割るや,自民との連立政権を画策するなどした。 85年党常任顧問,90年衆議院議員を退任。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
佐々木良作 ささき-りょうさく
1915-2000 昭和時代後期の政治家。
大正4年1月8日生まれ。日本電気産業労組書記長をへて,昭和22年参議院議員。30年社会党から立候補して衆議院議員(当選12回)。35年の民社党結成に参加,52年委員長となる。社会党,公明党との連携による政権への道を模索した。平成12年3月9日死去。85歳。兵庫県出身。京都帝大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
佐々木 良作 (ささき りょうさく)
生年月日:1915年1月8日
昭和時代の政治家。衆議院議員;民社党委員長
2000年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の佐々木良作の言及
【民社党】より
…同年11月,公明党と国会対策等で協議機関を設け,また〈責任野党〉論など中道勢力の結集を図った。77年11月の第22回臨時大会で佐々木良作が委員長に選ばれ,79年総選挙では善戦したが,80年の衆参同日選挙以後振るわず,85年4月塚本三郎に交代した。塚本は自公民政権を志向,86年の衆参院同日選挙では善戦したが,88年[リクルート事件]への関与が発覚,89年辞任した。…
※「佐々木良作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」