1960年(昭和35)1月に結成され、1994年(平成6)12月まで存続した右派社会民主主義政党。前年の1993年に、安保闘争の進め方をめぐって日本社会党を離党した西尾末広(すえひろ)・西村栄一(1904―1971)らが結成の中心メンバーであった。1970年4月には党名を民主社会党から民社党にかえ、社会民主主義政党の色彩をさらに薄めた。
[田口富久治]
発足時、衆院40名、参院17名、委員長西尾、支持母体は当初全日本労働組合会議(全労)、のち全日本労働総同盟(同盟)。資本主義の改革と保守政治との対立、全体主義・独裁主義(ファシズムと共産主義)の排撃、改良の積み重ねによる政治的、経済的、社会的、国際的民主主義の樹立を旗印とした。その後の道は険しく、党勢は1960年11月総選挙で17、1962年7月参院選で11に後退、以後衆院30名前後、参院10~13名に低迷してきた。1970年代末からやや勢力を挽回(ばんかい)し、1979年10月35名、1980年6月32名、1983年12月38名と結党時に近づいたが、1986年6月には26名と惨敗した。この間、委員長は、西尾から西村栄一(1967年6月第9回大会)、春日一幸(かすがいっこう)(1910―1989。1971年8月第15回大会)、佐々木良作(1915―2000。1977年11月第22回臨時大会)、塚本三郎(1927―2020。1985年4月)、永末英一(ながすええいいち)(1918―1994。1989年2月)と交替した。1970年、社会党の一部と公明党、民社党による新党樹立構想を打ち出して以来、政界再編成に活路を求めてきたが、1980年代に入ってからは、保守復調ムードのなかで、自民党の一部、さらには自民党そのものとの連合による政権参加をも模索した。その後、1993年(平成5)の総選挙後、細川護熙(もりひろ)内閣、羽田孜(はたつとむ)内閣の与党となったが、1994年12月の臨時党大会において、解党を決定、新生、公明、日本新党とともに新進党を結成し、35年間に及ぶ歴史に幕をおろした。
[田口富久治]
民主社会主義に基づき混合経済による福祉国家建設を掲げ、共産主義に対する強い敵意を特徴とした。自らを国民勤労者の党と規定し、「参加する福祉」、減量経営のための公務員削減、官公労のストライキ規制などを主張。当初は駐留なき安保を唱え、後には日米安保体制のいっそうの強化、防衛力増強、有事立法制定には賛成しつつも、憲法第9条改定には反対して野党色の保持を図ってきたが、ある面では自民党の一部以上に右翼的・タカ派的とみられていた。
[田口富久治]
同盟の民社党一党支持によって弱体な党組織を支えられている議員政党であったが、小政党であることもあって派閥抗争はそれほど表面化していなかった。経済界からの政治献金を受け、企業と労組が一体となった企業ぐるみ選挙を行ったが、支持層は地域的なばらつきが大きく、特定地域(愛知、大阪など)を除き、地方議会での勢力は振るわなかった。なお富士政治大学校出身の青年部隊などが、その行動力・組織力を提供していた。
[田口富久治]
1960年1月に社会党を離党した西尾末広,西村栄一らを中心に結成された政党。94年,解散。
日米安全保障条約の段階的解消を唱える西尾は,1959年9月13日,その言動につき社会党統制委員会の議に付託されるや,ただちに新党構想を発表し,17日再建同志会を結成,10月25日社会党を離党した。河上派の一部も同調して離党,両者は60年1月民主社会党(略称民社党)を結成した。衆議院40名,参議院17名,委員長西尾。支持母体は当初全日本労働組合会議(全労),のち全日本労働総同盟(同盟)。資本主義の改革を目ざして保守政治と対立,同時にファシズム,共産主義を全体主義,独裁主義として排撃,改革の積重ねによる政治的・経済的・社会的・国際的民主主義の実現を目標とした。しかしその道は険しく60年11月総選挙で17名に激減,62年7月参院選でも11名に後退,以後衆議院30名前後,参議院10~13名と低迷してきたが,70年代後半以降の保守化のなかでやや勢力を挽回,79年10月35名,80年6月32名,83年12月38名と,結党時に近づいた。
この間67年6月の第9回大会で西村栄一委員長を選出,69年11月の臨時党大会では,社会党との混同をさけ,かつイデオロギーの脱色を図って正式な党名を〈民社党〉とした。71年8月の第15回大会で春日一幸委員長を選出,76年1月の衆院本会議で共産党宮本顕治委員長にかかわる共産党リンチ事件について質問,共産党と対立した。同年11月,公明党と国会対策等で協議機関を設け,また〈責任野党〉論など中道勢力の結集を図った。77年11月の第22回臨時大会で佐々木良作が委員長に選ばれ,79年総選挙では善戦したが,80年の衆参同日選挙以後振るわず,85年4月塚本三郎に交代した。塚本は自公民政権を志向,86年の衆参院同日選挙では善戦したが,88年リクルート事件への関与が発覚,89年辞任した。副委員長から昇格した永末英一委員長は社公民を目指したが,同年の参院選で社会党が躍進して与野党逆転したときに振るわず,90年の総選挙でも不振で辞任した。
後任の大内啓吾委員長は社公民路線に訣別したが勢力拡大ならず,93年の自民党単独政権の終焉,政界流動化のなかで反自民の連立与党に参加し,94年4月羽田孜新生党内閣を実現,大内は厚相に就任した。しかし組閣直前に大内が新生党,日本新党,自由党,改革の会に働きかけて統一会派〈改新〉を結成したため社会党が連立から離脱し,羽田内閣は2ヵ月で総辞職,村山富市内閣の出現をみるにいたった。この件で大内は6月の大会で辞任し,米沢隆書記長が委員長に昇格したが,新党結成の動きのなかで同年12月9日解党,翌日新生・公明党等と新進党を結成した(なお大内は新進党に不参加)。
→政党
執筆者:神田 文人
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