佐倉城跡(読み)さくらじようあと

日本歴史地名大系 「佐倉城跡」の解説

佐倉城跡
さくらじようあと

[現在地名]佐倉市城内町

外堀を兼ねた鹿島かしま川右岸に位置。尾根続きの東方を空堀で分断して大手口とし、北・西・南の三方は崖状を呈するが、人為的に急崖とした地形も各所に認められる。崖下にはそう堀と総称した水堀(一ノ堀―五ノ堀・三十間堀・清水堀・鷹匠堀・三味線堀)がめぐる。稲葉正知時代の佐倉城府内之図(佐倉市蔵)に坂四〇ヵ所とみえるように、一帯には今も坂道が多く残る。大手口より外側の台地が城外、内側の台地と低地が城内となり、城の中心は城内台地南西端の本丸と二の丸である。二の丸は本丸の北・東の二方を防御する曲輪で、低地の出丸二ヵ所は二の丸のうちとされ、土井利勝時代には曲輪、堀田正信時代にはみずと称した(「佐倉城絵図」鷹見家蔵・明暦三年「佐倉屋鋪割絵図」佐倉厚生園蔵)。当城の出丸は搦手口として重要な曲輪で、うち一ヵ所には船入が接していた。二の丸の外側には同曲輪の北・東の二方を防御するため三の丸が配置され、三の丸北側角の馬出しが復元整備されている。三の丸の外側、北・東の二方には独立した曲輪二ヵ所があり、低地の曲輪と併せて惣曲輪と総称された。

当城は慶長一五年(一六一〇)に入部した土井利勝が戦国期以来の鹿島城(鹿島山城)の修復を命じられ、翌一六年一月に着工、元和三年(一六一七)に完成したとされる。寛永二年(一六二五)七月修営、同五年三月から再び修営がなされたが(寛政重修諸家譜)、以後幕末まで城域が拡張されたというような大きな変化はみられない。むしろ土塁などが各所で取崩されている。三万二千四〇〇石で佐倉に入部した土井氏は寛永二年七月までに一四万二千石に加増されており、以後一一万石代の堀田氏、一〇万石代の稲葉氏、九万石代の大久保氏、七万石代の石川・戸田・松平(大給)各氏、六万石代の松平乗久、四万石代の松平(形原)氏と土井氏を超える領知を与えられた大名が封ぜられなかったことにも理由があろう。とくに松平(形原)家信・康信の時期の六年間は家臣数からみて城内外にかなりの空地が広がっていたものと思われる。延享三年(一七四六)当時の本丸は東西五八間余・南北七〇間余、二の曲輪(二の丸)は東西一四七間・南北一六一間余、三の曲輪(三の丸)は東西二四二間余・南北二五〇間余、四の曲輪(惣曲輪)は東西五五一間余・南北四四五間余であった(城内間数改書上「匠庁録」堀田家文書)。「東武実録」によれば土井利勝は寛永六年六月に江戸城の三階櫓を拝領し、佐倉に運送して天守閣としたが、文化一〇年(一八一三)に焼失した(「佐倉藩年寄部屋日記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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