日本歴史地名大系 「佐倉城跡」の解説
佐倉城跡
さくらじようあと
外堀を兼ねた
当城は慶長一五年(一六一〇)に入部した土井利勝が戦国期以来の鹿島城(鹿島山城)の修復を命じられ、翌一六年一月に着工、元和三年(一六一七)に完成したとされる。寛永二年(一六二五)七月修営、同五年三月から再び修営がなされたが(寛政重修諸家譜)、以後幕末まで城域が拡張されたというような大きな変化はみられない。むしろ土塁などが各所で取崩されている。三万二千四〇〇石で佐倉に入部した土井氏は寛永二年七月までに一四万二千石に加増されており、以後一一万石代の堀田氏、一〇万石代の稲葉氏、九万石代の大久保氏、七万石代の石川・戸田・松平(大給)各氏、六万石代の松平乗久、四万石代の松平(形原)氏と土井氏を超える領知を与えられた大名が封ぜられなかったことにも理由があろう。とくに松平(形原)家信・康信の時期の六年間は家臣数からみて城内外にかなりの空地が広がっていたものと思われる。延享三年(一七四六)当時の本丸は東西五八間余・南北七〇間余、二の曲輪(二の丸)は東西一四七間・南北一六一間余、三の曲輪(三の丸)は東西二四二間余・南北二五〇間余、四の曲輪(惣曲輪)は東西五五一間余・南北四四五間余であった(城内間数改書上「匠庁録」堀田家文書)。「東武実録」によれば土井利勝は寛永六年六月に江戸城の三階櫓を拝領し、佐倉に運送して天守閣としたが、文化一〇年(一八一三)に焼失した(「佐倉藩年寄部屋日記」など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報