ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「信仰自由宣言」の意味・わかりやすい解説
信仰自由宣言
しんこうじゆうせんげん
Declaration of Indulgence
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王政復古期のイングランドでチャールズ2世の出した,非国教徒に対する刑罰法の適用を免除し,効力を停止する宣言。1662年の宣言は議会の同意が得られず撤回されたが,72年の宣言にカトリックの復活の意図があることを察知した議会は,翌年審査法の制定で対抗。ジェームズ2世も同趣旨の宣言を出し,教会で読み上げることを命じたことが,名誉革命の一因をつくった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
… 治世の初期には亡命中の顧問であったクラレンドン伯が国政を指導したが,財政は迫(ひつぱく)し,また復讐心に燃える騎士議会のピューリタン弾圧,第2次対オランダ戦争(1665‐67),ペストの大流行(1665),ロンドン大火(1666)と人心を動揺させる大事件がつづき,67年クラレンドン伯を解任して,後事を複数の顧問団(カバルCabal)にゆだねた。しかし国王は革命の教訓を忘れて従弟のフランス王ルイ14世の絶対主義体制の強化に憧れを寄せ,70年秘密裏に〈ドーバー条約〉を結び,多額の年金と引きかえにイギリスにおけるカトリックの復活を約し,72年〈信仰自由宣言〉を出した。議会はこの反動的風潮に態度を硬化し,〈信仰自由宣言〉を撤回させるとともに,〈審査法〉(1673),〈人身保護法〉(1679)をもって対抗し,さらに旧教徒の王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)の即位を拒むため〈王位継承排除法案〉を上程した。…
…国王はこの反乱に対して〈血の巡回裁判〉と呼ばれる極刑をもって臨み,議会を休会し,審査法を無視してカトリック教徒を文武の官吏に登用,ロンドン周辺には国民の嫌う常備軍を配置し,宗教裁判所を復活させた。さらに前王に引き続き87年と88年の再度にわたって〈信仰自由宣言〉を発した。この宣言は,信仰の自由の口実のもとにカトリックの復活を図ろうとするもので,しかも88年の宣言は教会における朗読が命じられた。…
※「信仰自由宣言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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