ジェームズ2世(その他表記)James Ⅱ

改訂新版 世界大百科事典 「ジェームズ2世」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ[2世]
James Ⅱ
生没年:1633-1701

名誉革命の直接の原因をつくったイギリス後期スチュアート朝国王在位1685-88年。チャールズ2世の弟で即位まではヨーク公と称した。ピューリタン革命中は大陸で亡命生活を送り,1660年の王政復古で帰国し,海軍長官を務め,みずから対オランダ戦争を戦ったが,旧教徒であったため審査法にふれて73年辞職した。兄王に嫡子がなかったので王位継承を予定されていたが,議会は3度にわたって〈王位継承排除法案〉(1679-81)を提出した。法案はいずれも成立せず,85年即位した。その直後前王の庶子モンマス公が起こした反乱を鎮圧し,その参加者には〈血の巡回裁判〉で極刑を科し,ついで常備軍の設置,旧教徒の文武官職への導入,宗教裁判所の復活,大学への干渉など一連の反動政策を展開した。88年第3次〈信仰自由宣言〉の朗読を拒んだ7人の国教会主教を投獄したことと皇太子の誕生を契機にして,名誉革命となり,軍士官の寝返りにあって絶望したジェームズフランスに亡命した。翌年ルイ14世の援助をうけ王位回復を目ざしてアイルランドに上陸したが,90年ボイン川の戦でウィリアム3世に敗れ,再起の志もむなしく隠退先のサン・ジェルマンで没した。彼には前妻アン・ハイド(クラレンドン伯の娘)との間にメアリー(2世),アンの2女があり,いずれも王位についたが,後妻メアリー・オブ・モデナとの間に生まれた皇太子はジャコバイトにかつがれて王位回復を企て,〈老僭王〉と称された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジェームズ2世」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ2世
ジェームズにせい
James II

[生]1633.10.15. ロンドン
[没]1701.9.17. サンジェルマン
イギリス,スチュアート朝のイングランドおよびスコットランド王 (在位 1685~88) 。スコットランド王としてはジェームズ7世。チャールズ1世ヘンリエッタ・マリアの次男でチャールズ2世の弟。即位まではヨーク公。清教徒革命中,一時幽閉されたが,1648年オランダからフランスに亡命し,60年王政復古により海軍長官となった。同年ハイド家のアンと結婚。 68年頃旧教に改宗し,73年旧教徒のメアリーと再婚したことによってその宗教的立場が問題になり,王位継承排除法案が議会に提出されたが,成立しなかったため,85年2月即位。旧教復活を目的に信仰自由宣言を強制し,常備軍維持をはかり,七主教裁判事件を強行するなど専制的になったため,88年名誉革命が起り,フランスに亡命した。翌年フランスの援軍を得てアイルランドに上陸し再起をはかったが,90年7月ボイン川の戦いで敗北し,フランスに戻って病死した。

ジェームズ2世[スコットランド王]
ジェームズにせい[スコットランドおう]
James II

[生]1430.10.16. エディンバラ
[没]1460.8.3. ロクスバラ
スコットランド王 (在位 1437~60) 。父王ジェームズ1世が暗殺されたため幼年で即位。初め内乱で苦しんだが,1449年親政を開始,52年反乱をたくらんだダグラス伯を殺して大貴族の勢力を押え,王権を高めた。フランスのシャルル7世と同盟してイングランドを攻めたが,ロクスバラ城攻撃に際し,大砲が暴発して死んだ。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジェームズ2世」の解説

ジェームズ2世(ジェームズにせい)
James Ⅱ

1633~1701(在位1685~88)

イングランド王。チャールズ2世の弟。スコットランド王としてはジェームズ7世。王政復古で帰国し海軍総司令官となったが,カトリック教徒のため審査法にふれ辞職。議会は王位継承排除法案によって彼の王位継承をはばもうとしたが,法案は成立せず,兄の死後即位。カトリックの復活と常備軍設置により専制政治を行おうとして議会と激しく対立し,1688年皇太子誕生を契機に名誉革命が起こり,フランスに亡命。ルイ14世の援助で王位の奪還を図ったが失敗。

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367日誕生日大事典 「ジェームズ2世」の解説

ジェームズ2世

生年月日:1633年10月14日
イギリス,スチュアート朝の国王(在位1685〜88)
1701年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジェームズ2世の言及

【イギリス】より

…しかも王権の側には常備軍と地方官僚の欠如という致命的な弱点があり,絶対王政の安定は前述の社会層の協力いかんにかかっていた。ところが前期スチュアート朝の2人の国王(ジェームズ1世,チャールズ1世)の行動は,彼らの期待を裏切るばかりであった。王権神授説の押しつけ,国教会体制の強化,対スペイン,フランス従属外交の展開,そして浪費と放縦をほしいままにする宮廷の存在などがそれである。…

【ウィリアム[3世]】より

…オラニエ公ウィレム,のちイギリスではオレンジ公ウィリアムとしても知られる。母はイギリス国王チャールズ1世の長女メアリーで,ウィレム自身のちにチャールズ1世の孫メアリー2世(ジェームズ2世の娘)と結婚(1677)しているので,イギリスのスチュアート王家とは姻戚関係にある。オランダは16世紀後半にスペインから独立したものの,たびたびフランス王ルイ14世の侵略をうけ,国内ではアムステルダムの商人層を支持基盤とするヨハン・デ・ウィト派と中産的生産者層を基盤とするオラニエ派が対抗していた。…

【スコットランド】より

…その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513‐42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。 スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。…

【スチュアート朝】より

…スコットランドでは,イングランド,フランスなどの外国勢力と結んだ貴族間の抗争が激烈を極めたため,王権の基盤は弱く,スチュアート朝の諸王には殺害されたり戦場で倒れたものが続出し,多くは未成年で即位した。1542年ジェームズ5世が死ぬと,娘のメアリー・スチュアートは生後1週間で即位し,のちフランスに送られてその皇太子妃となった。夫のフランソワ2世の病死により帰国したメアリーは,新旧両教派の貴族の抗争にまきこまれ,みずからの不品行もあって退位し,67年息子のジェームズ6世が即位した。…

【トーリー党】より

…ピューリタン革命期の王党派にその起源を求めることもできるが,通常は1670年代末に国王チャールズ2世の後継者をめぐる対立のなかで,血統による王位継承と国王大権とを擁護しようとした党派をさす。彼らは,カトリックに傾斜しつつあった王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)を王位継承から排除しようとする野党ホイッグ党に対抗した。トーリーという名称はアイルランドの追剝の名をとって反対派が名づけたもの。…

【名誉革命】より

…1688‐89年にイギリスで起こった革命。国王ジェームズ2世を追放して,王の長女メアリーとその夫オランダ総督ウィレムを共同統治者として迎え,立憲君主制の基礎を固めた。 王政復古体制下の1670年代末期,チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェームズを王位継承から排除する法案の議会提出をめぐって政治危機は深刻となった。…

【モンマス公】より

…叔父のヨーク公と王位相続を争い,プロテスタントの反ヨーク派にかつがれ,陰謀に荷担したかどで1679,84年の2度にわたって追放処分をうけた。85年ヨーク公がジェームズ2世として即位すると,王位継承権を主張して小部隊を率いて南西部のライム・リージスに上陸,民衆のかなりの支持を集めたが,支配階層の人々は動かず,セッジムーアの戦に敗れて,斬首された。王位継承をめぐる政治陰謀は詩人ドライデンによって《アブサロムとアキトフェル》にうたわれた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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