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倉賀野城 くらがのじょう

日本の城がわかる事典の解説

くらがのじょう【倉賀野城】

群馬県高崎市倉賀野にあった城。烏川左岸の河岸段丘上に築かれていた倉賀野氏の居城。治承年間(1177~80年)に、武蔵児玉党支流の秩父高俊が倉賀野に入植して築いた居館がその起源である。高俊はこれとともに倉賀野氏を称した。南北朝時代に、倉賀野光行が館を城郭へと改修した。戦国時代に入ると、倉賀野氏は他の西上野の国人衆と同様、関東管領の山内上杉氏に仕えるようになった。倉賀野行政は1546年(天文15)の川越城の戦い(河越夜戦)において、上杉憲政の部将として戦死している。上杉憲政が越後の長尾景虎のもとに逃亡した後は、倉賀野城は倉賀野尚行を城主として、金井秀景や須賀佐渡守をはじめとする「倉賀野党十六騎」が城を守った。倉賀野城は長野氏の居城の箕輪城の支城としての役割を果たしていたことから、1561年(永禄4)の武田信玄の西上野侵攻の際に攻められた。尚行は長野氏と連携しながら武田氏の攻勢をしのいだが、金井秀景らが武田氏に寝返るなどの内部分裂が起こり、1565年(永禄8)についに落城した。その後、1570年(元亀1)に金井秀景が倉賀野秀景と改名して城主となった。秀景は信玄の死後、勝頼に従ったが、1582年(天正10)に武田氏が滅亡すると、織田氏の重臣の滝川一益に従い、神流川合戦では滝川方として北条氏と戦った。しかし、本能寺の変後、滝川一益が上野から撤退すると、一転して北条氏直に仕えた。1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻め(小田原の役)では小田原城(神奈川県小田原市)に籠城し、落城直前に死去している。倉賀野城は小田原の役終結直後、廃城となった。残念ながら、城の遺構はほとんど現存していない。烏川沿いの公園に石碑が建っているだけである。JR高崎線倉賀野駅から徒歩約5分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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