上野国群馬郡(現,高崎市)の地名。近世,中山道の宿場町,利根川14河岸の一つ。《吾妻鏡》にその名が見える倉賀野氏が,鎌倉時代に城砦を構えたのが集落の起源とされている。戦国の末期,後北条氏によって朱印伝馬の制が定められたが,近世に入ってからは高崎藩に属し,中山道の宿駅として整備され,日光例幣使街道の分岐点ともなった。宿町並みの長さ556間(1006m),宿高2598石余,1852年(嘉永5)の家数330軒,人口2113人,本陣1,脇本陣2,旅籠屋32,問屋場3,馬数77疋,宿役は50人50疋,伝馬屋敷144軒であった。助郷村高は15ヵ村で1万1925石,37年(天保8)の使用人馬は人足2万3304人,馬1万6840疋であった。現在,旧脇本陣1,日光例幣使街道分岐点の常夜灯など,わずかに旧状を残している。
倉賀野宿は,利根川の支流烏川の北岸に接していたため,江戸へ直航する元船の遡航終点としての河岸の機能も加わり,中山・北国両街道を通じて信越方面に対する輸送幹線の水陸接点として,重要な役割を果たした。河岸の創設は慶長年代(1596-1615)と伝えられ,近くは高崎・安中藩などの外港,遠くは上田・松代・飯山藩など,北信大名・旗本ら15氏の廻米河岸であった。たとえば1724年(享保9)には松代藩の廻米が1万2000俵で,幕末には上州諸藩を除き信州諸藩・旗本だけでも4万3000俵に及んだ。なお商品経済の進展にともない,廻米以外に上り荷は塩のほか茶・干鰯(ほしか)・小間物・綿・太物類,下り荷は信州米・大豆・タバコ・麻・紙・板・貫など膨大な商荷物が輸送された。71年(明和8)の記録によると,上下とも約3万駄前後に達したという。当時の船積問屋は本陣を兼ねた勅使川原八右衛門,脇本陣の須賀長太郎,同庄兵衛など合わせて9軒,ほかに船持・舳乗(へのり)(船差)・船頭・水主(かこ)・馬士・船積人夫などがいた。船は元禄以前には150艘もあったというが,1691年(元禄4)には70艘,1786年(天明6)の書上げによると,300俵積み以下江戸回りの元船30艘を含めて54艘であった。1884年高崎線の全通によって宿場機能は失われ,河岸機能も漸次衰退した。1963年高崎市に編入されたが,高崎線と八高線の分岐点として地の利を得,現在は工業地域として発展している。
執筆者:井上 定幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
群馬県高崎市南東部の地区。江戸時代水陸交通の要衝。旧倉賀野町。中山道(なかせんどう)の宿場町で、日光例幣使街道(れいへいしかいどう)の分岐宿であり、また利根(とね)川系水運遡行(そこう)の終点倉賀野河岸(かし)(河港)の設けられた所。河岸は烏川(からすがわ)の左岸で、江戸へ年貢米、材木、大豆、絹などを、江戸からは塩、茶、干鰯(ほしか)などを高瀬舟(たかせぶね)で運び、群馬、長野、新潟各県の中継をした。現在はJR高崎線と八高線の分岐点で、食賀野東工業団地などが造成され、電器、食品などの工場が進出している。また、大山古墳、浅間山古墳など、倉賀野古墳群がある。
[村木定雄]
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…このため,1967年に高前バイパス(現,国道17号線)沿いに繊維を中心に,全国に先がけて卸売団地を造成した。南部の倉賀野地区は烏川に臨み,利根川水系の舟運と日光例幣使街道が中山道から分かれる要衝としてにぎわった。現在は高崎線と八高線がここで分岐する。…
※「倉賀野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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