改訂新版 世界大百科事典 「倫理政策」の意味・わかりやすい解説
倫理政策 (りんりせいさく)
オランダ語のEthische Politiekの訳で,オランダ政府が1901年ごろから27年ごろまでインドネシアで採用した開明的植民政策。強制栽培制度によるジャワ農村の疲弊は制度廃止後も好転せず,植民政策の根本的再検討を望む声が起こった。1901年,オランダ女王ウィルヘルミナは議会開院式の演説で,オランダは東インドの住民に対して倫理的義務と道徳的責任とを負う,と述べ,キリスト教普及,権力分散および住民の福祉重視という三つの原則を示した。これが倫理政策の名の起りである。権力分散とは従来オランダ本国で行っていた政策決定の相当部分をバタビア(現,ジャカルタ)の東インド政庁に委譲し,さらにバタビアのそれは各地の政府官庁に委譲すること,またヨーロッパ人官吏の職務を徐々に原住民官吏に移管することを意味した。そのために原住民官吏を短期間に大量に養成する必要に迫られ,福祉政策の要請とあいまって,各種学校の設置が急務とされた。とくに医師・教員養成,商工業,農業などの実用的学問が奨励され,原住民官吏養成学校,原住民医師養成学校が設立された。また初等教育も,従来ヨーロッパ人小学校に原住民上流子弟を少数だけ受け入れていたが,原住民小学校がしだいに増加した。地方自治尊重の建前から主要都市や各行政区域にも評議会を置いて,少数ながら原住民評議員を置いた。そしてこのような組織の頂点に東インド総督の諮問機関として植民地評議会を設置する準備が進められた。ところが,倫理政策実施以来,民族的自覚を高めたインドネシア人はブディ・ウトモ,イスラム同盟などの諸団体を結成し,議会開設を要求し始めていたので,この機関は国民参議会(フォルクスラート)と名を改め,かつ予定を早めて18年5月に発足した。しかし諮問機関という制約は民族主義者を満足させず,政治運動は過激化し,やがて26-27年の共産党武装蜂起が未遂に終わった後,政府は倫理政策から弾圧政策に転じた。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報