儀間村(読み)じまむら

日本歴史地名大系 「儀間村」の解説

儀間村
じまむら

[現在地名]久米島儀間ぎま

仲里なかざとう間切の西部、東は山城やまぐしく村、西は海、北西は具志川ぐしちやー間切の嘉手苅かでいかる村。中央を北東から南西儀間ぎま川が流れ、儀間ぎま湾に注ぐ。久米島の稲の栽培は南東の阿良あーら(二八七メートル)麓に生えた二本の稲に始まるとの伝説があり、同岳西麓に迫田跡がある。当村の古島は同岳麓のアーラ・玉城たまぐしく白堂しらどーにあったという(仲里村誌)。当村から阿良岳へは緩やかな勾配の斜面が続く。西側は急勾配で海に落込む。東麓から東方へ小河川のスハラ川が流れ出ている。同岳から東南東約一・五キロの沖積低地に島尻集落がある。戦前はこの山から林産物を収穫して他の集落などへ出荷した。山はイタジイ林で覆われ、久米島県立自然公園の第一種特別地区。「おもろさうし」巻二一の一〇三に「一 しけかけののろの(しけかけ〔拝所〕のノロが)/きまもりにおれて(儀間森に降りて)/金すゑ あちおそいに みおやせ(金のセヂ〔霊力〕を按司襲い〔王〕に奉れ)/又 国のねののろの(国の根〔中心〕のノロが)/きまもりにおれて 金すへ(儀間杜に降りて 金のスへ〔霊力〕を)」とある。絵図郷村帳に「ぎま村」とみえ、「志らたう村」も当地にかかわると考えられる。

儀間村
じーまむら

[現在地名]那覇市垣花町かきのはなちよう一―三丁目・住吉町すみよしちよう一―三丁目

那覇港口の南西に位置する。儀間村は麻姓田名家家譜に二世真宗の頃から現れる。尚真王時代、一四〇〇年代後半と推定される。もとは真和志まーじ間切に属したが、康熙一二年(一六七三)新設された小禄うるく間切に所属(球陽)垣花かちぬはなが当村発祥の地。嘉靖三〇年(一五五一)四月一三日の辞令書(田名家文書)により、「まわしまきりのきまのさとぬしところ」が「はゑのこおりの一人かなきまくすくの大やくもい」に安堵されている。麻姓田名家家譜によれば、このとき儀間金城地頭職から当村地頭職に転任したのは四世真孟儀間親雲上。

儀間村
ぎまむら

[現在地名]丸岡町儀間・新間しんま

うししま村の北に位置する。長禄二年(一四五八)の越前国長崎称念寺光明院寺領塔頭領惣目録(称念寺文書)によると、小嶋こじま郷のうちとして「一、小嶋義万禅師丸名田三丁六段六十歩、一、小嶋義万日光名地頭職共田二丁、一、小嶋郷義万内三郎丸名四丁八段半」とあり、この「義万」が当村の地をさすものと思われる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「高ほこノ郷」に含まれたが、村名は正保郷帳にみえ、田方七四二石余・畠方五三石余。

儀間村
じーまむら

[現在地名]読谷村儀間ぎま

渡慶次とうきし村の西にあり、西は東シナ海に面する。「中山伝信録」に「宜間」、「琉球国旧記」に「儀間邑」とみえる。当村は絵図郷村帳や「琉球国由来記」にみえないことから、一八世紀初頭までに渡慶次村より分村したと考えられる。「琉球藩雑記」によれば脇地頭儀間親雲上の儀間村からの作得三石余。一八八〇年(明治一三年)の県統計概表では戸数九五・人数四五五。一九〇三年の県統計書では士族の戸数一八・人数九八、平民の戸数一一六・人数四四四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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