八丁目村(読み)はつちようめむら

日本歴史地名大系 「八丁目村」の解説

八丁目村
はつちようめむら

[現在地名]郡山市日和田町八丁目ひわだまちはつちようめ

日和田村の東、阿武隈川西岸の河岸段丘平地に立地。八町目とも記す。三春みはる(現三春町)への道が通る。慶長(一五九六―一六一五)以前の奥州道中が福原ふくはら村から当地を経て梅沢うめざわ村へ抜けていた。字市坪いちのつぼはもと一の坪と記し(相生集)、古代条里の遺称地との説がある。字門前もんぜんには延久二年(一〇七〇)創建福聚ふくじゆう寺があったが、檀那田村氏が一六世紀中頃三春に移建したという(相生集)。現船引ふねひき町の大鏑矢おおかぶらや神社蔵鉄鉢銘に、文明一九年(一四八七)六月一日の紀年と「日谷田根岸大工秀次」とみえ、日和田鋳物師として知られる鋳物師集団は、当時阿武隈川西岸の地内根岸ねぎし一帯に住していた。


八丁目村
はつちようめむら

[現在地名]福島市松川町

東流する水原みずはら川に沿い、南端さかい川が流れる。東は鼓岡つづみがおか村・天明根てんみようね村、西は水原村、境川の南対岸は安達郡吉倉よしくら(現安達町)で、北部は松川丘陵にかかる。東部を奥州道中が南北に通り、当村・鼓岡村天明根村八丁目はつちようのめ宿を形成し、三村は八丁目宿三ヵ村と通称される。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「御はんの所」として八丁目とみえ、段銭は一七貫五〇〇文。当地には熊野田・棚邨・中野内など一二の武士の屋敷があったという(信達一統志)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七六一石余。近世初期の邑鑑では鼓岡村・天明根村も含んで高付されているとみられ、高一千六八四石余、免二ツ九分、家数一六九(役家一〇〇、肝煎・検断・小走一〇、諸職人・寺・山伏・脇家五九)、人数五五六、役木として桑・楮各少しがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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