福聚寺(読み)ふくじゆじ

日本歴史地名大系 「福聚寺」の解説

福聚寺
ふくじゆじ

[現在地名]小倉北区寿山町

足立あだち山西麓にある。広寿山と号し、黄檗宗。本尊釈迦如来。県指定史跡。小倉藩主小笠原氏の菩提寺として広大な境内を有し、地元では江戸期から現在に至るまで寺号よりも広寿山の山号で親しまれている。寛文四年(一六六四)小倉藩初代藩主小笠原忠真萬福まんぷく(現京都府宇治市)から肥前長崎へ帰る途中の唐僧即非を招待、側室永貞院とともに三ヵ月がかりで黄檗宗寺院の建立を懇願し、同年一二月現在地よりも奥の方に鍬入れし、翌年三月に完成させた。同九年高三〇〇石が寄付された(「忠雄公年譜」県史資料六)内訳は足立村内二三七石余・大城寺だいじようじ(大畠村内)内六二石余(貞享三年「寺領目録」北九州市史)。二世住職法雲は二代藩主小笠原忠雄に頼み、延宝四年(一六七六)から三年をかけて中国風の壮大な寺院に建替えた。


福聚寺
ふくじゆうじ

[現在地名]久留米市合川町

枝光えだみつ村の南東端の字福聚寺にある。臨済宗妙心寺派。山号は慈雲山。本尊は釈迦如来。久留米藩七代藩主有馬頼は二代藩主忠頼の非業の死に続くたびたびの有馬家断絶の危機は忠頼の非道の犠牲となった人々の障りであるとし、有馬家安泰と追善祈祷の祈願寺建立を発願、日向国佐土原さどわら(現宮崎県佐土原町)大光だいこう寺住職古月禅材を懇請して開山とした。堂宇の建設は久留米藩により、寺領二五〇石と山林が付された(福聚寺文書、古月碑文)。宝暦元年(一七五一)古月の没後、二世百朋士範・五世千山恵単・六世大展恵俊などが輩出


福聚寺
ふくじゆうじ

[現在地名]三春町御免町

家中屋敷であった御免ごめん町にあり、恵日山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。暦応二年(一三三九)田村輝定が開き、延文二年(一三五七)大光禅師復庵宗己を迎えて開山としたもので、もと八丁目はつちようめ(現郡山市)とも福原ふくはら(現同上)にあったともいわれるが定かでない。田村義顕の三春移住後に三春に移し、平姓三春田村氏の菩提所とした。天明年中(一七八一―八九)全焼し、のち再建。田村義顕・隆顕・清顕三代の墓、元文三年(一七三八)御預けのまま当地で没したもと駿府城(現静岡市)定番松平民部武郷の墓がある。


福聚寺
ふくじゆうじ

[現在地名]下館市樋口

久下田くげた城東門跡の外側に位置する。天台宗、玄亀山無量寿院と号し、本尊は阿弥陀如来。古くは下野国おき(現栃木県芳賀郡二宮町)にあり円滝えんりゆう寺と称していたが、天正年間(一五七三―九二)に水谷正村が当所に移し、圭田四〇石を付して、現寺名に改めたという(下野国誌)。江戸時代には朱印地七石、一二ヵ寺の末寺を有して繁栄し、藩主松平頼重の生活を記録した「英公日暦」寛永一六年(一六三九)一一月四日には「一、同日夜五ツ時過、下館出家社人御礼之次第、光照寺・最勝寺・福聚寺(中略)右之分今晩御書院ニ御目見有之」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「福聚寺」の解説

福聚寺

福岡県北九州市小倉北区にある黄檗宗の寺院。山号は広寿山、本尊は釈迦如来。1665年、小倉藩初代藩主の小笠原忠真が、同家の菩提寺として創建。県指定史跡で、喜多元規の筆になる紙本著色即非画像など多くの美術品を所蔵。

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世界大百科事典(旧版)内の福聚寺の言及

【小倉】より

…1617年(元和3)西曲輪鋳物師(いもじ)町に勧請された祇園社(八坂神社)の祇園会は京都の祇園祭を模したもので,今日も盛大である。また65年(寛文5)中国僧即非(そくひ)禅師を開祖として創建された広寿山福聚寺は小倉黄檗(おうばく)美術の中心である。1732年(享保17)の大飢饉とちょうどそのころから始まった経済構造の変化によって小倉は衰微の方向に向かい,1845年(弘化2)には人口も1万余に減少した。…

※「福聚寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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