八坂郷(読み)やさかごう

日本歴史地名大系 「八坂郷」の解説

八坂郷
やさかごう

和名抄」高山寺本は「也佐賀」、刊本は「也佐加」と訓ず。

「続日本後紀」承和四年(八三七)二月二七日条に、

<資料は省略されています>

とあり、八坂東院(雲居うんご寺、跡地は現東山区)が建立されて八坂寺(法観寺、現東山区)東西に並んだ。また「三代実録」元慶八年(八八四)一二月二五日条には「以同郡八坂郷地十町、為贈正一位藤原朝臣数子墓地」とあり、南に隣接する鳥戸とりべ郷と同じく墓地として利用されることが多かったらしい。

八坂郷
やさかごう

「和名抄」所載の郷で、「豊後国風土記」の速見郡五郷の一つに該当すると考えられている。八坂川や高山たかやま川の流域が郷域で、現在の杵築きつき市域にあたる。両川に挟まれた丘陵上には七双子ななぞうし古墳群・千光寺せんこうじ古墳群など数十の古墳のほか、さらにこれらに先立つ豊後でも最古に近い小熊山こぐまやま古墳・御塔山おとうやま古墳が確認されており、古墳文化の卓越した展開がみられる。平安後期から宇佐宮弥勒寺領庄園浦部十五箇所の一つとして八坂庄が史料的に確認される。文治二年(一一八六)四月一三日の後白河院庁下文(益永家記録)によれば、康治二年(一一四三)から久安五年(一一四九)に豊後国守であった源季兼の任期中に八坂庄(八坂郷とも称す)大神おおが庄・由布ゆふ庄・山香やまが庄、大神庄から分立した日出ひじ庄などいわゆる浦部十五箇所を季兼が収公したが、宇佐宮の託宣によってこれらを返付したことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報