新撰 芸能人物事典 明治~平成 「八波むと志」の解説
八波 むと志
ハッパ ムトシ
- 職業
- 喜劇俳優
- 本名
- 坪田 稔
- 旧名・旧姓
- 富沢 稔
- 別名
- 前名=八波 六十四,治 敬一,筆名=難破 船人
- グループ名
- コンビ名=脱線トリオ
- 生年月日
- 大正15年 12月1日
- 出生地
- 兵庫県 神戸市
- 学歴
- 馬込尋常高小高等科〔昭和16年〕卒
- 経歴
- 生後半年で生母を亡くし、父の知人であった奄美大島の治井家の養子となる。4歳で養母が亡くなって後妻が迎えられ、翌年には養父が急逝したことから、血のつながりがまったくない後妻と2人だけとなり、実父に引き取られた。実父はまもなく再婚し、4人の母を持つことになった。貧しい少年時代を送り、小学5年から兄と2人暮らし。昭和16年兄が軍属として南洋へ赴いたため一人となり、日本高周波鋼業技能者養成所に入って溶解工となった。18年甲府第六三連隊に入隊、19年千葉県の近衛歩兵第九連隊に移って、同地で敗戦を迎えた。21年弁当を包んでいた新聞で森川信一座の研究生募集を目にして応募、芸能界入り。淀橋太郎が山茶花究(三三が九)の向こうを張って八波六十四(八八六十四)と名付けてくれたが、よく“むとし”ではなく“ろくじゅうし”と呼ばれるため治敬一に改名、間もなく“八波むと志”に直した。同年浅草常盤座で初舞台を踏み、東京レビュー、劇団新風俗などに参加。浅草や横浜、新宿などの舞台に立った後、31年由利徹・南利明と脱線トリオを結成。同年新東宝「勝鬨天魔峠」で映画に初出演、単独出演で準主役を演じた。同年三木のり平の強い推薦で宝塚劇場にも初出演し、のり平とコンビを組んだ。36年舞台「雲の上団子郎一座」に出演。37年由利、南と話し合い、個人活動をしやすいように脱線トリオを解消した。38年江利チエミ主演の「マイ・フェア・レディ」でドウーリットル役を好演したが、39年正月、自動車事故に遭い、5日後に亡くなった。
- 没年月日
- 昭和39年 1月9日 (1964年)
- 家族
- 長男=八波 一起(俳優)
- 伝記
- アチャラカ松永伍一全景 高平 哲郎 著松永 伍一 著(発行元 ビレッジセンター出版局大和書房 ’04’88発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報