額田庄(読み)ぬかたのしよう

日本歴史地名大系 「額田庄」の解説

額田庄
ぬかたのしよう

西は現加賀市動橋いぶりはし町・しよう付近、東は現小松市矢田やた町・矢田野やたの町に接する付近までの動橋川下流の江沼えぬま平地北東隅一帯に比定される。小松市額見ぬかみ町を遺称地とする。皇室領で領家は中院家。大治二年(一一二七)八月二八日の額田庄寄人等解(半井家本「医心方」巻二五裏文書)に「額田御庄」とある。文中に「可依本院御庄例」とあることから白河院領とみる説がある。また同年正月加賀国が鳥羽院分国となり、藤原家成が院分受領として加賀守になったことから鳥羽院領との説もあるが、同時に白河院別当藤原家保(家成の父)知行国でもあるので、白河院領として立庄され、のち鳥羽院に伝領されたとみられる。同解によると当庄では下級庄官である案主大江経定が有力名主層の一〇人の番頭とともに「御庄寄人」と称していた。大江氏は一一世紀末に加賀国司として下向、額田庄近辺に土着し、一族は郷司職などを領掌して勢力を扶植した。寄人たちは御服綿・地子米代八丈絹を年貢として納めていたが、この徴収に関して前預所藤原盛重(白河院近習で高階経敏家人)の新儀非法を訴えた。同二年か同三年と推定される六月七日の藤原親賢書状(同文書)などからこの頃検注が実施されたことがわかる。文治二年(一一八六)九月五日の源頼朝下文案(平松文書)には「件庄加納八田・額田両郷是也」とあり、当庄の本来の四至は不明であるが、立庄後八田・額田両郷を加納田として庄域内に取込んでいった。立庄後も額田郷が残存したことは大治二年八月日の江沼郡諸司等解(半井家本「医心方」巻二五裏文書)に「額田郷司散位藤原」の署判があることで確認できる。しかし八田・額田両郷は、国衙在庁の一人と目される板津成景や宗親法師に侵略されており、また頼朝が任命した比企朝宗の代官平太実俊の庄境侵犯や地頭を自称する加藤成光の不法行為が相次いでいた。前掲頼朝下文案はこれら在地領主の乱妨停止を命じたもので、元久二年(一二〇五)五月二八日の源実朝政所下文(中院家文書)で当庄地頭職は停止され、貞応元年(一二二二)には承久の乱後に設置された新補地頭も停止された(同年九月一五日「北条義時書状案」同文書)

預所職は建久六年(一一九五)五月二七日の後院庁下文案(平松文書)で刑部卿典侍(藤原兼子)が補任されており、また庄務権(領家職)は兼子の姉範子がもっていたが、正治元年(一一九九)一二月日の後鳥羽院庁下文案(同文書)で範子からその子中院通方に譲られた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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