日本歴史地名大系 「六車郷」の解説
六車郷
むぐるまごう
- 大阪府:豊中市
- 六車郷
永長二年(一〇九七)伊勢神宮役夫工使に濫行したなかに六車庄司季正ら同庄の住人があり、明法博士の勘申により赦免されたが、関白藤原師通の連絡をうけた父の師実は、同庄のことや役夫工米徴収の難渋する摂津の諸庄について人々に談合を命じており(「中右記」二月六日・一九日・二〇日条)、当郷は初期には垂水西牧に属さない六車庄として成立していたと考えられる。その後、千里丘陵と縁辺の摂関家領垂水西牧の庄園化とともに併合され六車郷となったのであろう。同牧は寿永二年(一一八三)近衛基通から奈良春日社に寄進され、本所が近衛家、領家は春日社(興福寺)となった。文永二年(一二六五)六月頃、当郷の下司が春日社家の命令に服さなかったゆえか、社司らが本所近衛家に列参して前任者の還補を要求したが聞入れられず、八月に入ると興福寺衆徒の要請で三方神人が発向して現任の下司を追放した(「中臣祐賢記」八月六―一五日条)。八年後の文永一〇年には、当郷住人資持が神木を汚穢しており(同書閏五月一一日条)、これは時期からみて作毛に関することかと思われるが、神人発向の力による春日社の支配強化はかえって住民の反発を招いている。
永和元年(一三七五)春日社神供料の当郷と
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報