日本大百科全書(ニッポニカ) 「兵庫関」の意味・わかりやすい解説
兵庫関
ひょうごのせき
中世における東大寺・興福寺の荘園(しょうえん)で、かつ水上交通の関所。現在の神戸市和田(わだ)岬付近。摂津兵庫は古代に武庫(むこ)、和田泊(わだのとまり)ともよばれ、831年(天長8)すでに船舶から勝載料(しょうさいりょう)と称して関料を徴収した記録がある。1196年(建久7)造東大寺勧進職重源(かんじんしきちょうげん)が置石(おきいし)米と称し築港費を徴収して以来、東大寺の課税権が発生した。のち伏見(ふしみ)院領となったが、1308年(延慶1)東大寺八幡宮(はちまんぐう)に寄進されてふたたび東大寺領となる。その収益は伊賀(いが)国務に匹敵するといわれた。さらに興福寺も同関務を競望した結果、1338年(延元3・暦応1)に同関は南北に分割され、南関の商船目銭(もくせん)(入港料)を興福寺が、北関の升米(しょうまい)(年貢の運搬船にかける入港料)、置石料を東大寺が徴収することが認められた。西国筋から京都へ向かう全船舶が通過するため商船の輻輳(ふくそう)とともに関料も増大し、港湾は殷賑(いんしん)を極めた。1445年(文安2)北関の入港船荷を記録した『兵庫北関入船(ひょうごきたのせきいりふね)納帳』は世界的に貴重。応仁(おうにん)の乱(1467~77)後、細川氏被官に押領(おうりょう)され、港も衰退に向かった。
[今谷 明]
『林屋辰三郎編『兵庫北関入船納帳』(1981・中央公論美術出版)』