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内村祐之 ウチムラユウシ

デジタル大辞泉の解説

うちむら‐ゆうし〔‐イウシ〕【内村祐之】

[1897~1980]精神医学者。東京の生まれ。鑑三の長男。昭和11年(1936)東京帝大教授となり、松沢病院長を兼任。のち国立精神衛生研究所長。また、学生時代は投手として活躍しており、同37年からプロ野球コミッショナーも務めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

内村祐之 うちむら-ゆうし

1897-1980 昭和時代の精神医学者。
明治30年11月12日生まれ。内村鑑三の長男。北海道帝大教授をへて昭和11年東京帝大教授となり,東京府立松沢病院長を兼任。双生児や傑出者の脳の研究などで知られた。のち国立精神衛生研究所長。一高時代は投手として活躍。プロ野球コミッショナーをつとめた。昭和55年9月17日死去。82歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「わが歩みし精神医学の道」。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

内村祐之
うちむらゆうし
(1897―1980)

医学者、プロ野球功労者。内村鑑三(かんぞう)の長男として東京に生まれる。第一高等学校、東京帝国大学の学生時代、左腕速球投手として鳴らした。1923年(大正12)東大医学部卒業。精神医学者としてクレッチマーの紹介や傑出者の脳の研究で著名である。1962年(昭和37)から1965年まで3代目プロ野球コミッショナーを務め、プロ野球の発展に貢献。とくに『オフィシャル・ベースボール・ガイド』の発刊、新人選手研修制度の実施は有名である。日本学士院会員。東京大学名誉教授、財団法人神経研究所所長を務めた。[神田順治]
『ベースボール・マガジン社編・刊『回想の内村投手』(1982)』

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世界大百科事典内の内村祐之の言及

【精神医学】より

…その最初の紹介が神戸文哉(かんべぶんさい)によるJ.R.レーノルズ編《内科学全書》(1872)中のH.モーズリー著〈精神病〉の章の訳出で,1876年に《精神病約説》を表題として刊行され,また,3年後には最初の精神医学の講義が御雇外国人の内科教師E.vonベルツにより現在の東大医学部で行われた。 ちなみに,日本では明治以後〈精神病学〉という用語が長く使われ,〈精神医学〉がそれに代わったのは第2次大戦以後のことで,後者は時の東大教授内村祐之の訳語といわれる。〈精神病学〉から〈精神医学〉への変化は象徴的で,これは精神病院のなかに密封されていた精神分裂病など狭義の精神病を対象とした医学から,人格障害や神経症など社会内で生活可能な軽い異常状態をも扱う医学へという発展を意味する。…

【松沢病院】より

…病棟は分棟式で,病状による収容病棟の機能分化が図られ,開放的処遇が進められた。36年,東大教授内村祐之が第7代院長となったが,以後戦争のため厳しい情勢下におかれた。49年,公務員法により東大教授の兼任が不可能となり,林が専任院長となった。…

※「内村祐之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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