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内村鑑三 うちむら かんぞう

美術人名辞典の解説

内村鑑三

キリスト教指導者。東京生。札幌農学校・アーモスト大・ハートファード神学校卒。足尾銅山鉱毒事件に関してはその実態を世間に訴え、日露戦争においては幸徳秋水・堺利彦らと非戦論を主張。聖書にのみ基づく、〈無教会主義〉を唱え、その伝道・学問的研究・著述活動を精力的に行った。昭和5年(1930)歿、70才。

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デジタル大辞泉の解説

うちむら‐かんぞう〔‐カンザウ〕【内村鑑三】

[1861~1930]無教会派キリスト教伝道者・評論家。江戸の生まれ。一高教授のとき、教育勅語に対する敬礼を拒否して免職となる。日露戦争に際し、非戦論を唱えた。雑誌「聖書之研究」創刊。著「余は如何にして基督(キリスト)信徒となりし乎(か)」「基督信徒の慰」「求安録」など。

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百科事典マイペディアの解説

内村鑑三【うちむらかんぞう】

キリスト教思想家。無教会主義の創始者。高崎藩士の子として江戸藩邸に生まれる。札幌農学校入学後,W.S.クラーク感化で受洗。卒業後渡米してアマースト大学などに学ぶ。
→関連項目咸錫憲黒岩涙香国民之友札幌農学校志賀直哉朝永三十郎反戦運動藤井武矢内原忠雄万朝報

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

内村鑑三 うちむら-かんぞう

1861-1930 明治-昭和時代前期の宗教家,思想家。
万延2年2月13日生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)高崎藩士内村宜之(よしゆき)の長男。明治10年札幌農学校に2期生としてはいり,在学中洗礼をうける。17年渡米してアマースト大に入学,総長シーリーの影響をうけ,回心を体験。帰国後23年第一高等中学につとめたが,翌年不敬事件で辞職。「万朝報(よろずちょうほう)」記者となる。33年「聖書之研究」を創刊。聖書研究会をひらき,無教会主義をとなえた。足尾銅山鉱毒反対運動にかかわり,日露戦争に際しては非戦論を主張。昭和5年3月28日死去。70歳。著作に「余は如何(いか)にして基督(キリスト)信徒となりし乎(か)」「代表的日本人」など。
【格言など】人間の力なきことと真理の無限無窮なることを知る人は,思想のために他人を迫害せざるなり(「基督信徒の慰め」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

内村鑑三

没年:昭和5.3.28(1930)
生年:文久1.2.13(1861.3.23)
明治大正期に無教会主義を主唱したキリスト教の独立伝道者。高崎藩士内村宜之,母ヤソの長男。江戸生まれ。東京英語学校を経て,明治10(1877)年札幌農学校に第2期生として入学。同級生に新渡戸稲造,宮部金吾らがいた。W.S.クラークの感化でキリスト者となった第1期生大島正健らの強要をうけ,「イエスを信ずる者の契約」に署名。翌年アメリカ・メソヂスト監督教会の宣教師M.C.ハリスより受洗。札幌基督(札幌独立基督)教会の創設に参加する。同14年に卒業,北海道開拓使御用掛となり,水産業の調査開発に従事。同16年辞職して上京,学農社講師,農商務省御用掛となる。翌17年結婚に破れて渡米,エルウィンの精神遅滞児施設で看護人として働き,翌年アーモスト大学に選科生として編入,総長J.H.シーリーと出会い,回心を体験,贖罪信仰を得る。同20年に卒業,ハートフォード神学校に一時学び,同21年5月帰国。そのまま9月に新潟の北越学館教頭として赴任したが,経営方針をめぐり宣教師などと対立,12月に帰京。東洋英和学校,水産伝習所で教え,同23年9月第一高等中学校嘱託教員となったが,同24年1月9日不敬事件(「教育勅語」の天皇の署名への礼拝を拒否)を起こし,依願退職。世の非難をあび,大阪,熊本と転じ,同26年より京都に住む。 著述に没頭して『基督信徒の慰』『求安禄』『余は如何にして基督信徒となりし乎』などの著作で文名を高める。同30年『万朝報』の英文主筆に迎えられて上京。足尾鉱毒反対運動に参加,また黒岩涙香,幸徳秋水らと社会改良団体「理想団」を結成する。日清戦争で義戦論を説いた罪を悔い,日露非戦論を主張して『万朝報』を退社。同31年に『東京独立雑誌』を刊行,同33年に同雑誌を廃刊して『聖書之研究』を創刊,また翌34年『無教会』を出す。大正7(1918)年と翌8年には再臨運動をなした。「教会の無い者の教会」として内村が説いた無教会は,聖書とキリストの贖罪という信仰のみを中心にしたもので,「二つのJ」のイエスと日本を愛した彼の強き独立心と一体となって生み出された,福音的キリスト教の日本的展開ともいうべきものである。その言動は,国家の不義を問う予言者として,時代人の心に大きな影響を与え,都市知識人だけではなく,農村にも内村の弟子を生み育てた。<著作>『内村鑑三全集』全40巻<参考文献>正宗白鳥『内村鑑三』,中沢洽樹『若き内村鑑三論』,矢内原忠雄『内村鑑三とともに』,渋谷浩『近代思想史における内村鑑三』,新保祐司『内村鑑三』,鈴木範久『内村鑑三日録 一高不敬事件』,無教会史研究会編『無教会史』Ⅰ・Ⅱ

(大濱徹也)

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世界大百科事典 第2版の解説

うちむらかんぞう【内村鑑三】

1861‐1930(文久1‐昭和5)
日本のキリスト教界を代表する一人。無教会主義の創始者。高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれ,有馬英学校その他に学んだのち札幌農学校(現,北海道大学)2期生となる(1877)。ここでW.S.クラークの感化を受けてキリスト教に入信した。卒業後は水産研究に従事したが,結婚に破れて渡米し,アマースト大学に学んだ。その学業は今日の一般教養程度のものであったが,総長のシーリーJ.H.Seeleyの感化の下に回心を体験したこと(1886)は以後の活動を決定した。

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大辞林 第三版の解説

うちむらかんぞう【内村鑑三】

1861~1930) キリスト教思想家。江戸生まれ。札幌農学校在学時キリスト教に入信。日露戦争開戦にあたっては非戦論を唱えた。雑誌「聖書之研究」を創刊。従来の教会的キリスト教に対し無教会主義を主唱。著「基督キリスト信徒の慰め」「求安録」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

内村鑑三
うちむらかんぞう

[生]文久1(1861).3.23. 江戸
[没]1930.3.28. 東京
無教会主義の創始者。高崎藩内村謹之丞宜之の長男。幼い頃から厳格な儒教教育を受けたが,東京外国語学校で英語を学び,札幌農学校の官費生となり,在学中 W.S.クラークの影響を受けて 1878年受洗。卒業後は官吏として水産調査に従事したが志を得ず,結婚の破局も重なって渡米。アマースト大学,ハートフォード神学校に学び帰国。 90年第一高等中学校に奉職。翌年教育勅語奉戴式に勅語に敬礼を躊躇して不敬事件を起して職を追われた。その後大阪,熊本,京都,名古屋などを流浪しながら『基督信徒の慰め』 (1893) を刊行,著述家としての生活に入った。『求安録』 (93) ,『余は如何にして基督信徒となりし乎』 (95) などにその入信の道程が告白されている。理想団に加わり足尾銅山鉱毒事件を攻撃し,日露戦争に際しては信仰の立場から大胆な非戦論を唱えた。 1900年には雑誌『聖書之研究』を創刊し,誌上と集会によって無教会主義のキリスト教を説いた。晩年は社会的活動から身をひき,福音の宣教に力をつくした。『内村鑑三全集』 (20巻) がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

内村鑑三
うちむらかんぞう
(1861―1930)

明治・大正期のキリスト教の代表的指導者、伝道者。万延(まんえん)2年2月13日高崎藩士の子として江戸に生まれる。1873年(明治6)有馬私学校(ありましがっこう)英学科に入学、翌年東京外国語学校に転じた。1877年札幌農学校に第2期生として入学し、W・S・クラークの残した「イエスを信ずる者の契約」に署名。翌年6月メソジスト教会宣教師M・C・ハリスより受洗。1881年同校を卒業し、開拓使御用掛(ごようがかり)となった。卒業にあたり、同期の新渡戸稲造(にとべいなぞう)らと一生を二つのJ(JesusとJapan)に捧(ささ)げることを誓い合った。1882年上京し、農商務省水産課に勤めたが、1884年11月渡米。エルウィンの知的障害児施設で看護人として働く。1885年9月アマースト大学に入学。総長シーリーの大きな影響を受け、1886年に回心を体験した。1887年同校を卒業し、一時ハートフォード神学校で学んだあと、1888年5月に帰国した。
 帰国するや、まず新潟の北越学館に教頭として赴任したが、宣教師と対立して同年のうちに帰京した。1891年1月、嘱託教員を務める第一高等中学校での教育勅語捧読(ほうどく)式で、いわゆる「不敬事件」を引き起こして辞職。のち、大阪の泰西学館(たいせいがっかん)、熊本の英学校、名古屋英和学校の教師となる。この間、『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』『求安録』(1893)、『地理学考』(1894)のほか、英文の『Japan and the Japanese』(1894)、『How I Became a Christian』(1895)など、その代表的著作を刊行した。1897年から『萬朝報(よろずちょうほう)』の英文欄主筆となる。翌年『東京独立雑誌』を創刊、キリスト教に基づく痛烈な社会批判、文明批評に筆を振るった。1900年(明治33)9月より雑誌『聖書之研究』を創刊、以後この刊行と聖書講義とがその一生の仕事となる。同年にはふたたび『萬朝報』の客員となり、足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒反対運動、理想団による社会改良運動に従った。1903年日露開戦をめぐり非戦論を主張し、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)や堺利彦(さかいとしひこ)らと同社を退社。1918年(大正7)からは中田重治(じゅうじ)、木村清松(せいまつ)らとキリスト再臨運動に従った。昭和5年3月28日に没した。
 著書はほかに『後世への最大遺物』(1897)、『羅馬書(ロマしょ)の研究』(1924)など多数ある。無教会主義キリスト教の主張者としてキリスト教界に大きな波動をおこしたのみならず、その預言者的思想は、日本の宗教、教育、思想、文学、社会その他多方面に広く深い影響を及ぼし、その門から藤井武(ふじいたけし)、矢内原忠雄(やないはらただお)、三谷隆正(みたにたかまさ)ら多数の人材を輩出させた。[鈴木範久]
『『内村鑑三全集』全40巻(1980~1984・岩波書店)』

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世界大百科事典内の内村鑑三の言及

【植村正久】より

…また,臣民道徳を絶対的とする立場を批判し,人間の自由を唱え,キリスト教による普遍的正義をもって国家を愛し,その進歩に貢献することは可能であり,またそうすべきであるとした。内村鑑三の不敬事件(1891)に際しては,勅語拝礼を批判し,信教の自由を唱え,自由民権運動や社会主義運動のいう政治的,社会的自由に対してキリスト教による精神的自由の優位を強調した。日清・日露戦争を正義と文明進歩のための戦いとして擁護し,それを契機とする精神的革新の必要性を説き,韓国併合に際しては朝鮮人の民族的独立心を高く評価し,彼らに自由を付与する善政論を唱えた。…

【内村鑑三不敬事件】より

… 1890年(明治23)10月30日に発布された教育勅語について文部省は直ちにその謄本を作成して,全国の国公私立の学校に配布することとした。当時の文部省直轄学校へは明治天皇の〈宸署〉(直筆による署名と天皇〈御璽〉を押印)謄本が下付されることになり,内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校へは同年12月25日にそれが下付された。同校では,翌91年1月9日にその奉読式を実施したが,その際にこの事件の原因とされた内村の〈不敬行為〉が発生した。…

【教育勅語】より

…さらに,これらを不敬のないよう保管するために奉安殿,奉安庫を校内に設置するよう同年11月訓令が出された。発布の翌年,勅語謄本への拝礼を拒否した第一高等中学校(後の第一高等学校)講師内村鑑三はその職を追われるという事件(内村鑑三不敬事件)があり,為政者はこうした事件を利用しながら,勅語を神聖化し,その国民への浸透をはかったが,その普及に最大の役割を負わされたのは小学校であり,祝祭日儀式を頂点としながら,修身,国語,歴史,唱歌など各教科で日常的に教育勅語の精神を徹底させる指導が行われた。また状況に応じ教育勅語体制補強のため〈戊申詔書〉(1908),〈国民精神作興詔書〉(1923),〈青少年学徒ニ賜ハリタル勅語〉(1939)などの詔書,勅語が発布された。…

【キリスト教】より

…それは〈日本のキリスト信者は日本人キリスト信者としてのアイデンティティをどのように理解しているのか〉という問いでもある。事実,内村鑑三以来,多くのキリスト教思想家,神学者,作家たちがこの問いをめぐって盛んに論じてきた。そこから〈日本的基督(キリスト)教〉を唱える者も現れたが,キリスト教が日本文化に根を張ることの困難さも指摘された。…

【キリスト教文学】より

… まず1880年代の後半から90年代(明治20年代)の理想主義文学の提唱,さらにはロマン主義文学の台頭にキリスト教思想の影響は深く現れる。植村正久,内村鑑三の両者を挙げて〈今や我国に於て基督教文学の代表者として二人を得たり〉とは徳富蘇峰の言葉だが,たしかに植村の文業を抜きにして明治期,特に20年代の文学史的意義にふれることはできまい。そのすぐれた旧約の《詩篇》《雅歌》などの翻訳,さらには《新撰讃美歌》(1888)にみる流麗な訳詩は,明治の新体詩に深い影響を与えた。…

【クロムウェル】より

…日本においては彼の生涯と業績は,主としてカーライルの《クロムウェルの書簡と演説》(1845)などを通して伝えられ,国王を処刑した〈ピューリタンの英雄〉として,明治時代の一部の知識人の生涯に決定的ともいえる影響を及ぼした。広範な社会活動を展開した小説家木下尚江の出発点には,松本中学の歴史の教室でのクロムウェルとの出会いがあったし,また教育勅語の発布を契機に起こった〈内村鑑三不敬事件〉(1891)の背後には,カーライルの書物を愛読した内村のクロムウェルへの傾倒があり,その後も内村はしばしばクロムウェルの生涯を論じている。なお日本で最初に彼の伝記を執筆したのは,竹越与三郎であって,その《格朗穵(クロムウェル)》は,1890年民友社から刊行された。…

【聖書之研究】より

内村鑑三主筆の月刊雑誌(1900‐30)。内村の強烈な個性と思想がその聖書講義,論説,随筆,日記に反映している。…

【ダンテ】より

… ダンテの作品は,約言すれば,政治と文学との激しい葛藤のなかで生み出された。日本においては,明治時代から《新生》と《神曲》を中心に,かなりの翻訳と紹介が行われてきたが,その傾向を大別すると,第1は上田敏を頂点とする純文学的動機によるもの,第2は内村鑑三,正宗白鳥ら宗教的関心に基づくもの,第3は阿部次郎が築こうとした哲学的・倫理的傾向のもの,そして第4にダンテの文学を政治と文学の葛藤の角度から(とくに第2次世界大戦下の日本の状況と照らし合わせて)とらえようとしたもの(矢内原忠雄,花田清輝,杉浦明平ら)となる。《神曲》の翻訳としては,文章表現と文体に問題は残るが,最も原文に忠実で正確なものとして,山川丙三郎訳を挙げねばならない(1984年現在)。…

【非戦論】より

…運動としての非戦論は,1900年中国で起こった義和団の蜂起に対し日本が出兵した際,幸徳秋水が〈非戦争主義〉(《万朝報》1900年8月7日)を書いて平和を説き非戦争を唱えたことに始まる。非戦論はその後,日露戦争開戦の危機の中で,人道主義的立場(黒岩涙香の《万朝報》,島田三郎の《毎日新聞》など),キリスト教的立場(内村鑑三,柏木義円,救世軍など),社会主義的立場(幸徳,堺利彦,木下尚江ら)から展開された。03年10月に《万朝報》が開戦論に転じると《毎日新聞》も11月に開戦論に転じた),堺,幸徳,内村は万朝報社を退社し,11月堺,幸徳は平民社を設立するとともに,週刊新聞《平民新聞》を創刊,一貫して非戦論を説いた。…

【無教会主義】より

…内村鑑三によって始められ,弟子の塚本虎二,矢内原忠雄,黒崎幸吉らの活動によって定着したとみられる日本独自のキリスト教。無教会の最初の主張は《基督信徒の慰め》(1893)に現れるが,これは〈不敬事件〉のあとのもので,国家権力からの自由を求めるピューリタニズムの思想が背後にあるとみられる。…

※「内村鑑三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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