明治・大正期のキリスト教の代表的指導者、伝道者。万延(まんえん)2年2月13日高崎藩士の子として江戸に生まれる。1873年(明治6)有馬私学校(ありましがっこう)英学科に入学、翌1874年東京外国語学校に転じた。1877年札幌農学校に第2期生として入学し、W・S・クラークの残した「イエスを信ずる者の契約」に署名。翌1878年6月メソジスト教会宣教師ハリスMerriman Colbert Harris(1846―1921)より受洗。1881年同校を卒業し、開拓使御用掛(ごようがかり)となった。卒業にあたり、同期の新渡戸稲造(にとべいなぞう)らと一生を二つのJ(JesusとJapan)に捧(ささ)げることを誓い合った。1882年上京し、農商務省水産課に勤めたが、1884年11月渡米。エルウィンの知的障害児施設で看護人として働く。1885年9月アマースト大学に入学。総長シーリーJulius Hawley Seelye(1824―1895)の大きな影響を受け、1886年に回心を体験した。1887年同校を卒業し、一時ハートフォード神学校で学んだあと、1888年5月に帰国した。
帰国するや、まず新潟の北越学館に教頭として赴任したが、宣教師と対立して同年のうちに帰京した。1891年1月、嘱託教員を務める第一高等中学校での教育勅語捧読(ほうどく)式で、いわゆる「不敬事件」を引き起こして辞職。のち、大阪の泰西学館(たいせいがっかん)、熊本の英学校、名古屋英和学校の教師となる。この間、『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』『求安録』(1893)、『地理学考』(1894。のち『地人論』に改題)のほか、英文の『Japan and the Japanese』(1894)、『How I Became a Christian』(1895)など、その代表的著作を刊行した。1897年から『萬朝報(よろずちょうほう)』の英文欄主筆となる。翌1898年『東京独立雑誌』を創刊、キリスト教に基づく痛烈な社会批判、文明批評に筆を振るった。1900年(明治33)9月より雑誌『聖書之研究』を創刊、以後この刊行と聖書講義とがその一生の仕事となる。同年にはふたたび『萬朝報』の客員となり、足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒反対運動、理想団による社会改良運動に従った。1903年日露開戦をめぐり非戦論を主張し、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)や堺利彦(さかいとしひこ)らと同社を退社。1918年(大正7)からは中田重治(なかだじゅうじ)(1870―1939)、木村清松(きむらせいまつ)(1874―1958)らとキリスト再臨運動に従った。昭和5年3月28日に没した。
著書はほかに『後世への最大遺物』(1897)、『羅馬書(ロマしょ)の研究』(1924)など多数ある。無教会主義キリスト教の主張者としてキリスト教界に大きな波動をおこしたのみならず、その預言者的思想は、日本の宗教、教育、思想、文学、社会その他多方面に広く深い影響を及ぼし、その門から藤井武(ふじいたけし)、矢内原忠雄(やないはらただお)(1893―1961)、三谷隆正(みたにたかまさ)ら多数の人材を輩出させた。
[鈴木範久 2018年3月19日]
『『内村鑑三全集』全40巻(1980~1984・岩波書店)』
日本のキリスト教界を代表する一人。無教会主義の創始者。高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれ,有馬英学校その他に学んだのち札幌農学校(現,北海道大学)2期生となる(1877)。ここでW.S.クラークの感化を受けてキリスト教に入信した。卒業後は水産研究に従事したが,結婚に破れて渡米し,アマースト大学に学んだ。その学業は今日の一般教養程度のものであったが,総長のシーリーJ.H.Seeleyの感化の下に回心を体験したこと(1886)は以後の活動を決定した。自伝《余は如何(いか)にして基督信徒となりし乎(か)How I Became A Christian》(1895)は誕生から回心までの記録である。帰国後第一高等中学校(旧制一高)嘱託教員のとき,教育勅語に敬礼を拒んだことが不敬事件として騒がれ,内村は世に住む所なきの苦しみを味わった(1891)。しかしその間に《基督信徒の慰め》《求安録》《代表的日本人》という名著が生まれた。さらに《万朝報》《東京独立雑誌》によって社会評論に健筆をふるい,足尾銅山鉱毒事件にかかわり,あるいは日露開戦に際しては非戦論を貫くなど,目ざましく活躍した。黒岩涙香,堺利彦,幸徳秋水らと理想団を結成して社会改良を志したこともある。1900年創刊の《聖書之研究》は伝道を著しく前進させた。第1次大戦終結前に始めた再臨運動は1年半で幕を閉じたが,これは内村の信仰を決めただけでなく,弁証法神学の台頭とならんで20世紀キリスト教のあり方を表したものといってよい。晩年の内村は聖書講義に集中して《羅馬(ロマ)書の研究》のような神学的傑作を生み,また塚本虎二,黒崎幸吉,藤井武,矢内原忠雄,三谷隆正,前田多門,南原繁らの人物を育てた。
内村の波瀾に富む生涯とカーライルを好む強い個性とは,同時代の文学者,小山内薫,有島武郎,正宗白鳥らを引きつけ,かつ反発させたほどであった。しかし思想は個性につきるのではない。彼の思想の根底には世界史への関心があり,これと聖書理解とがいっしょになって,幅と厚みのある思想が形成された。初期の《地理学考》(のちに《地人論》と改題)や《デンマルク国の話》《興国史談》は,世界史的観点に立って文明の興亡を見,歴史的環境と地理的環境とを重ね合わせ,究極的には歴史をつくり,歴史によってつくられる人間そのものに関心をおくという魅力に富む方法をもっている。民族と民衆への同情と関心がこの歴史観の根本をなす。今一つの関心は進化論にあって,ここからして進化と飛躍を含む宇宙史が構想された。そしてこの宇宙史が人類史と重なり,かつ人間がキリストの十字架・贖罪から見られるとき,歴史は宇宙史と共に救済史として理解される。キリスト再臨を歴史におけるリアルなできごととして告げ,非戦論を終末的平和に結びつけ,また終末的教会としての無教会を唱えたことは,この歴史理解を離れてはない。内村の聖書理解は旧約・新約全部にまたがり,それを有機的全体とみなしたもので,キリスト教神学にいう創造と救済や律法と福音の両極的・動的統一をよくつかんでいる。彼はこれを〈真理は楕円形のごときものである〉という言葉で表し,歴史の預言的解釈をもちつづけた。晩年には無教会主義にもとづいて〈宗教改革しなおしの必要〉を唱えた。
執筆者:泉 治典 上述の歴史観に加えて内村はまた地理学にも造詣が深く,札幌農学校へも地理学者になることを夢みて入校し,アマースト大学でも日本人留学生としては最初と思われる本格的な地学知識を身につけ,帰国後,旧制一高はじめ諸学校で地理,歴史を教えた。1894年K.リッターはじめ多数の外国文献を用いて前述の《地理学考》を著し,〈地理学は一種の愛歌,哲学,預言書なり〉という前代未聞の概念規定で筆を起こし,西洋と東洋との仲介者,東西両文明を吸収融合することが,地理上より見た日本の使命であると結んだ。これ以外,明瞭な形での地理書の著述はないが,その門下に〈世界大〉〈世界の市民〉など雄大な思想を植えつけ,小国や未開地域への開眼を呼びかけた。
執筆者:辻田 右左男
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(大濱徹也)
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明治・大正期のキリスト教思想家
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1861.2.13~1930.3.28
明治・大正期のキリスト教伝道者。高崎藩士の子として江戸に生まれる。札幌農学校卒。在学中に受洗し,札幌独立教会の設立に尽くす。1884年(明治17)渡米,87年にアマースト大学を卒業した。88年に帰国後,北越学館の教頭などをへて第一高等中学校の嘱託教員となったが,91年教育勅語奉読式での態度を不敬と非難され依願解職。97年「万朝報(よろずちょうほう)」記者となり日露戦争には非戦論を唱える。足尾鉱毒反対運動にもたずさわり理想団の結成に加わった。翌年「東京独立雑誌」を創刊,無教会主義を唱えて自宅で聖書講読会を開き,矢内原忠雄・藤井武・南原繁など有為の人材を輩出した。「内村鑑三全集」がある。
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…また,臣民道徳を絶対的とする立場を批判し,人間の自由を唱え,キリスト教による普遍的正義をもって国家を愛し,その進歩に貢献することは可能であり,またそうすべきであるとした。内村鑑三の不敬事件(1891)に際しては,勅語拝礼を批判し,信教の自由を唱え,自由民権運動や社会主義運動のいう政治的,社会的自由に対してキリスト教による精神的自由の優位を強調した。日清・日露戦争を正義と文明進歩のための戦いとして擁護し,それを契機とする精神的革新の必要性を説き,韓国併合に際しては朝鮮人の民族的独立心を高く評価し,彼らに自由を付与する善政論を唱えた。…
… 1890年(明治23)10月30日に発布された教育勅語について文部省は直ちにその謄本を作成して,全国の国公私立の学校に配布することとした。当時の文部省直轄学校へは明治天皇の〈宸署〉(直筆による署名と天皇〈御璽〉を押印)謄本が下付されることになり,内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校へは同年12月25日にそれが下付された。同校では,翌91年1月9日にその奉読式を実施したが,その際にこの事件の原因とされた内村の〈不敬行為〉が発生した。…
…さらに,これらを不敬のないよう保管するために奉安殿,奉安庫を校内に設置するよう同年11月訓令が出された。発布の翌年,勅語謄本への拝礼を拒否した第一高等中学校(後の第一高等学校)講師内村鑑三はその職を追われるという事件(内村鑑三不敬事件)があり,為政者はこうした事件を利用しながら,勅語を神聖化し,その国民への浸透をはかったが,その普及に最大の役割を負わされたのは小学校であり,祝祭日儀式を頂点としながら,修身,国語,歴史,唱歌など各教科で日常的に教育勅語の精神を徹底させる指導が行われた。また状況に応じ教育勅語体制補強のため〈戊申詔書〉(1908),〈国民精神作興詔書〉(1923),〈青少年学徒ニ賜ハリタル勅語〉(1939)などの詔書,勅語が発布された。…
…それは〈日本のキリスト信者は日本人キリスト信者としてのアイデンティティをどのように理解しているのか〉という問いでもある。事実,内村鑑三以来,多くのキリスト教思想家,神学者,作家たちがこの問いをめぐって盛んに論じてきた。そこから〈日本的基督(キリスト)教〉を唱える者も現れたが,キリスト教が日本文化に根を張ることの困難さも指摘された。…
… まず1880年代の後半から90年代(明治20年代)の理想主義文学の提唱,さらにはロマン主義文学の台頭にキリスト教思想の影響は深く現れる。植村正久,内村鑑三の両者を挙げて〈今や我国に於て基督教文学の代表者として二人を得たり〉とは徳富蘇峰の言葉だが,たしかに植村の文業を抜きにして明治期,特に20年代の文学史的意義にふれることはできまい。そのすぐれた旧約の《詩篇》《雅歌》などの翻訳,さらには《新撰讃美歌》(1888)にみる流麗な訳詩は,明治の新体詩に深い影響を与えた。…
…日本においては彼の生涯と業績は,主としてカーライルの《クロムウェルの書簡と演説》(1845)などを通して伝えられ,国王を処刑した〈ピューリタンの英雄〉として,明治時代の一部の知識人の生涯に決定的ともいえる影響を及ぼした。広範な社会活動を展開した小説家木下尚江の出発点には,松本中学の歴史の教室でのクロムウェルとの出会いがあったし,また教育勅語の発布を契機に起こった〈内村鑑三不敬事件〉(1891)の背後には,カーライルの書物を愛読した内村のクロムウェルへの傾倒があり,その後も内村はしばしばクロムウェルの生涯を論じている。なお日本で最初に彼の伝記を執筆したのは,竹越与三郎であって,その《格朗穵(クロムウェル)》は,1890年民友社から刊行された。…
…内村鑑三主筆の月刊雑誌(1900‐30)。内村の強烈な個性と思想がその聖書講義,論説,随筆,日記に反映している。…
… ダンテの作品は,約言すれば,政治と文学との激しい葛藤のなかで生み出された。日本においては,明治時代から《新生》と《神曲》を中心に,かなりの翻訳と紹介が行われてきたが,その傾向を大別すると,第1は上田敏を頂点とする純文学的動機によるもの,第2は内村鑑三,正宗白鳥ら宗教的関心に基づくもの,第3は阿部次郎が築こうとした哲学的・倫理的傾向のもの,そして第4にダンテの文学を政治と文学の葛藤の角度から(とくに第2次世界大戦下の日本の状況と照らし合わせて)とらえようとしたもの(矢内原忠雄,花田清輝,杉浦明平ら)となる。《神曲》の翻訳としては,文章表現と文体に問題は残るが,最も原文に忠実で正確なものとして,山川丙三郎訳を挙げねばならない(1984年現在)。…
…運動としての非戦論は,1900年中国で起こった義和団の蜂起に対し日本が出兵した際,幸徳秋水が〈非戦争主義〉(《万朝報》1900年8月7日)を書いて平和を説き非戦争を唱えたことに始まる。非戦論はその後,日露戦争開戦の危機の中で,人道主義的立場(黒岩涙香の《万朝報》,島田三郎の《毎日新聞》など),キリスト教的立場(内村鑑三,柏木義円,救世軍など),社会主義的立場(幸徳,堺利彦,木下尚江ら)から展開された。03年10月に《万朝報》が開戦論に転じると《毎日新聞》も11月に開戦論に転じた),堺,幸徳,内村は万朝報社を退社し,11月堺,幸徳は平民社を設立するとともに,週刊新聞《平民新聞》を創刊,一貫して非戦論を説いた。…
…内村鑑三によって始められ,弟子の塚本虎二,矢内原忠雄,黒崎幸吉らの活動によって定着したとみられる日本独自のキリスト教。無教会の最初の主張は《基督信徒の慰め》(1893)に現れるが,これは〈不敬事件〉のあとのもので,国家権力からの自由を求めるピューリタニズムの思想が背後にあるとみられる。…
※「内村鑑三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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