出口村(読み)いでぐちむら

日本歴史地名大系 「出口村」の解説

出口村
いでぐちむら

[現在地名]天瀬町出口、大山おおやま西大山にしおおやま

本城ほんじよう村の南西に位置し、大山川に近いたけくび谷山たにやま見取みどりふくろ、同支流の出口谷いでぐちたに川流域の榎迫えのきざこ中園なかぞの中村なかむら夕川せきごう北平きたびら岳の西の見竹みだけ久木野ひさぎの、東麓のたまなどの集落がある。玉ノ木から北に竹田・日田往還が通る。中世は五馬いつま庄の内で、天正八年(一五八〇)と推定される四月二三日の大友義鎮感状(大友家文書録)に「五馬庄井手口松原村」とみえ、財津永三が田北紹鉄を井手口松原まつばら(現大山町)で追討したことなどを賞されている。

慶長六年(一六〇一)の予州替地御知行所目録(佐伯藩政史料)および同七年の玖珠郡日田郡御蔵入目録(同史料)では五馬庄の内とみられる。正保郷帳に村名がみえ、田高一八四石余・畑高一八四石余で、五馬庄に属し、茅山有と記す。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免五ツ六分二厘。


出口村
でぐちむら

[現在地名]枚方市出口一―六丁目・北中振きたなかぶり三―四丁目・南中振みなみなかぶり三丁目・伊加賀西いかがにし

茨田まんだ郡に属し、淀川左岸沿いの沖積低地に位置する。東は伊加賀村走谷はしりだに村・中振村、南は木屋こや(現寝屋川市)。当地光善こうぜん寺蔵親鸞絵像の裏書は、文明七年(一四七五)九月五日付蓮如筆で「茨田郡中振郷出口村」とみえる。

寛永一〇年(一六三三)から山城淀藩領であったが、正保元年(一六四四)幕府領となった。宝暦三年(一七五三)大坂城代松平輝高領に転じたのに始まり、同城代に任じられた人物の所領と幕府領とが繰返された。


出口村
でぐちむら

[現在地名]辰口町出口

北市きたいち村・上清水かみしみず村の東、手取川下流南岸に位置する。地名は当地が能美丘陵から手取川方面に通じる出口にあたることに由来するとされる。集落はもともと北西方に位置し、北東には七軒ほどの新村があったが、手取川南遷による出水で江戸時代の初め現在地に移ったという(辰口町史)。またうめ堤防前の地域(現在の新開)寺井てらい(現寺井町)十村牧野孫七が主付となって開いたいわゆる牧野開まきのびらきの地と伝える。天文一五年(一五四六)六月一八日の西泉等公用算用状(石清水文書)に「山上郷出口村」とみえ、同一四年分の臨時支出として当地の長衆九郎右衛門尉への香典一〇〇文が計上されている。


出口村
でぐちむら

[現在地名]府中市出口町

府中市ふちゆういち村の北に位置する。村内を石州路が通り、道に沿って町並があり、番所が置かれていた(備後郡村誌)芦田あしだ郡に属し、元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば高八一四石余、元禄一三年(一七〇〇)の出口村御検地水帳(広島大学蔵)では反別二九町余・高四一〇石余。高が大幅に減っているが理由は不詳。福山藩水野氏断絶後幕府領、元禄一三年以降福山藩領。

前記検地水帳によると屋敷数は合計六五。「備後郡村誌」に「山四合田畑六合村ニ御座候、但弐歩水損所、八歩旱損所」とあり、宝永八年(一七一一)の家数四九・人数六二二、医者五人、寺一(人数一七)、馬一六・牛一二。文化六年(一八〇九)頃には家数一九三・人数七九一、馬一二・牛五三(福山志料)


出口村
いでぐちむら

[現在地名]大方町出口

うら村の南に接し、土佐湾に東面する。入野いりの郷の一村。「土佐州郡志」に「自田野浦飯積寺山二十町許南、東限海涯、西限古塚村、南限伊屋村、北限田野浦村、東西二町余南北一町余、戸凡二十八、其地砂土」とある。

天正一七年(一五八九)の入野郷地検帳に「出口村」および「大楠村出口分」がみえ、検地面積は合せて二二町九反余、屋敷数一三、うち居屋敷七。


出口村
でぐちむら

[現在地名]長島町出口

長島輪中の中央部にあり、平方ひらかた村の東側にあたる。元和年間(一六一五―二四)長島藩主菅沼定芳の命により又木またぎ村の百姓伊藤又右衛門が開発した(長島細布)。この地は低湿地であったため、村人は南側の南出口みなみでぐちに移動した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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