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劉焯 りゅうしゃくLiú Zhuō

世界大百科事典 第2版の解説

りゅうしゃく【劉焯 Liú Zhuō】

544‐610
中国,隋代の学者。字は士元。信都昌亭(河北省冀県)の人。劉献之の三弟子の一人で毛詩の学を伝え,礼を熊安生に受けて劉炫とともに二劉と称されたが免職され,煬帝(ようだい)が即位すると再び任用された。天文学に精通し,二次差補間法公式を作って太陽や月の運動の不規則性の計算を解決し,平気に代わって定気を用いることを提唱した。604年(仁寿4)に皇極暦を編み,官暦には採用されなかったが,唐代の暦に大きな影響を与えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

劉焯
りゅうしゃく
Liu Zhuo

[生]大同10 (544)
[没]大業6 (610)
中国,の儒学者。信都(河北省衡水県)の人。字は士元。開皇年間の進士。博識で知られたが,国子館で釈奠礼(→釈奠)が行なわれたとき,ほかの学者たちをやりこめて恨みを買い,中傷によって官を奪われ,郷里に帰って教育と著述に専心した。その学識の精博さを慕って従学する者が多かったが,煬帝の即位とともに再び召されて太学博士となった。『暦書』『五経述義』などの著書がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


りゅうしゃく
(544―610)

中国の隋(ずい)代の儒学者、暦学者。信都昌亭(現、河北省冀州(きしゅう)市)の人。字(あざな)は士元。博学で知られる劉(りゅうげん)(546ころ―613ころ)とともに「二劉」と称された。煬帝(ようだい)に仕え、自ら策定した皇極暦を上奏したが、官暦には採用されなかった。しかし暦の計算に補間法を用いて、太陽と月の運行の不規則性を計算し、また定朔法や定期法を取り入れるなど、後の唐代の暦に影響を与えた。『五経述議』『暦書』などを著した。[編集部]

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世界大百科事典内の劉焯の言及

【暦】より

…いまその主要なものを表2に示す。 このほか隋の時代に劉焯(りゆうしやく)が編集した皇極暦は,優秀な暦として知られ,公用されなかったが,唐代の暦法の模範となり,大きな影響を及ぼした。なお,中国において太陽暦が採用されるのは中華民国の成立(1912)によってであった。…

【中国数学】より

…なおその子の祖之は球の体積計算に成功した。隋の時代には劉焯(りゆうしやく)が天文計算にはじめて補間法を使用した。次の唐代にはインド人天文学者瞿曇悉達(くどんしつた)が《九執暦》を編集し,その中でアラビア数字の源流であるインド数字,それに加えて正弦関数を紹介したが,中国数学に影響を与えることはできなかった。…

【中国天文学】より

…なおこれより以前,4世紀前半の東晋時代に虞喜によって〈歳差〉が知られた。これらの知識をすべてとり入れ,画期的な暦法をつくったのが隋の劉焯(りゆうしやく)の〈皇極暦〉である。劉焯は日月の運動を計算するにあたって補間法を考案した。…

【二十四節気】より

…この置閏の原則は前104年に制定された前漢の太初暦以後の暦法に踏襲された。後漢末の劉洪が月の運動の不規則性を考慮した暦法を作り,北斉(550‐577)の張子信が太陽の視運動の不規則性を発見したのを受けて,隋の劉焯(りゆうしやく)は604年(仁寿4),皇極暦を作成して二十四節気の決め方の改革を提唱した。周天を24等分して,太陽が1等分点を通過するごとに一つの節気の日付を決めるようにしたものであった。…

※「劉焯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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