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北アイルランド紛争 きたアイルランドふんそう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北アイルランド紛争
きたアイルランドふんそう

北アイルランドの少数派カトリック系住民の差別撤廃を目指す公民権運動が,1968年10月プロテスタント系住民と衝突して以来尖鋭化して起こった一連の事件。1921年にアイルランドイギリスから独立した際,北アイルランドの人口 150万の 3分の2に達するプロテスタント系住民が支配的地位を占め,カトリック系住民との宗教的対立や差別問題が生じた。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

北アイルランド紛争

1937年にアイルランドが独立。英国に残った北アイルランドでは、英国からの分離とアイルランドへの併合を求める少数派のカトリック系住民と、英国の統治を望む多数派のプロテスタント系住民が対立した。60年代後半に始まったテロなどの犠牲者は3200人を超えた。98年に包括和平合意が成立した。

(2013-06-16 朝日新聞 朝刊 1外報)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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大辞林 第三版の解説

きたアイルランドふんそう【北アイルランド紛争】

イギリス統治下にあるアイルランド島北東部アルスター地方の、カトリック系住民の自治独立要求ないしはアイルランドへの編入要求をめぐる紛争。1998年和平成立。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北アイルランド紛争
きたあいるらんどふんそう
Northern Ireland Conflict

イギリス領北アイルランドでイギリス軍、ユニオニスト(プロテスタント)準軍事組織、カトリック準軍事組織が三つどもえになって続けている抗争。[堀越 智]

アイルランドの南北分割

アイルランドの東北部は古来アルスターUlsterとよばれており、かつてアイルランド全体がイギリス行政下にあったとき、アイルランドは32県に区分されたが、そのうちアルスターは9県であった。現在イギリスと連合王国を形成している北アイルランドはこのなかの6県である。1919年に始まった独立戦争の末期1920年にイギリスはアイルランド統治法を発布してアイルランドに自治を認めたが、南部の26県(アイルランド自由国、現在の共和国)と北部の6県(北アイルランド)にアイルランドを分割し、それぞれに自治議会を開設させた。北アイルランドにはイングランドとスコットランドからのプロテスタント移住民が多く、自治に強く反対しているという理由からであった。しかし実際にはファーマナ県は56%、タイロン県は55%とカトリックが多く、アーマ県、ロンドンデリー県でもカトリックは40%を超えていた(デリー市では56%)。ここに南北分割の無理があり、カトリック住民に不満を残すことになったのである。[堀越 智]

カトリック差別の構造

こうして北アイルランドは1921年に自治国家として成立した。しかし、その社会は、多数とはいえ3分の2、あるいは地域によっては少数派であるプロテスタントのユニオニスト(イギリスとの連合派)がカトリックを強権的に支配する構造であった。それを支えたのが、
(1)普通警察や武装警察に加えて、独立戦争中に編成された特別警察(なかでもBスペシャルとよばれたパートタイムの武装警察がもっとも凶暴であった)と容疑者を無期限に拘留するインターンメント(予防拘禁)などによる治安体制
(2)比例代表制の廃止、複数選挙権制(普通選挙権に加えて、資産家に認める企業主特権など―公民権運動が始まると廃止)やゲリマンダー(特定政党が有利になる不自然な選挙区割)などによる各地方議会のプロテスタント独占
であった。それによってカトリックの失業率がプロテスタントのつねに2倍以上という職業差別など、従来からあったカトリック差別の社会構造がいっそう極端に固定されてしまった。その基盤にはカトリック住民とプロテスタント住民の宗派対立意識があるが、それがいっそう拡大、固定されたのである。[堀越 智]

公民権運動から武力闘争へ

さらに第二次世界大戦後、イギリスの福祉行政が北アイルランドの差別構造を一段と際だたせることになった。とくに住宅問題では、ハウジング・トラストが設立されて公営住宅の建設が進むと、割当ての不平等がカトリック住民の強い反発を招き、住宅割当ての公平が、1967年に結成された北アイルランド公民権協会の重点的行動目標の一つとなったほどである。公民権協会は「1人1票、住宅割り当て・就職差別の廃止、Bスペシャルの廃止、治安立法の撤廃」を目標として掲げた。それらは良識的に当然であり、また1960年代に入って北アイルランドも共和国も強烈なユニオニズムやナショナリズムからの脱却期に入り、両者の関係改善に双方が努力し始めた時期でもあったので、カトリック住民が主体ではあったがプロテスタント住民の幅広い支持も集まった。
 しかし、それだけにプロテスタント強硬派の危機感が強く、彼らの圧力で北アイルランド首相が強硬派へと変えられたり、公民権デモに対する攻撃が繰り返された。このようななかで起きたのが1969年1月のバーントレット事件だった。この事件は公民権運動に対するたび重なる攻撃に反発して生まれた小グループ「人民民主主義(ピープルズ・デモクラシー)」が計画したベルファストからデリーまでの長距離デモに、プロテスタント過激派グループがデリー入口のバーントレット橋で攻撃し、警察がそれを見過ごした事件である。この事件が両派住民の対立を激化させ、ついにプロテスタントのオレンジ団行進(17世紀にウィリアム3世率いるプロテスタント軍がジェームズ2世率いるカトリック軍を破ったことを記念して19世紀初めに始まった行進)をきっかけに両派の激突となり、「内戦か?」とまで報道される事態となった。結局イギリス軍が大量に投入されることになった。しかしイギリス軍はもっぱらカトリック対策に力を注いだため、ほとんど活動を止めていたIRA(アイルランド共和軍)の出番をつくる形となった。IRAはイギリスとの武力闘争によるアイルランドの統一を主張してきたのである。IRAは活動を再開したものの、認めていない南北分断の結果として成立した自由国やそれに続く共和国を容認するかどうか、そして認めるとすれば武力闘争方針を継続すべきかで大きく分かれ、結局、1970年に分裂した。その後、容認に反対する側はプロビジョナル(通称プロボProvo、暫定派)として、容認する側はオフィシャル(公式派)として行動することになった(以下IRAはプロビジョナルをさす)。この時期注目されるもう一つの動きは、カトリック穏健派として社会民主労働党(SDLP)が誕生したことである。しかし状況は急速に悪化していった。デリーの公民権デモにイギリス特殊部隊SASが発砲し、計14人が死亡した「血の日曜日事件」(1972)は公民権運動からIRAの武力闘争への決定的な転換点となった。[堀越 智]

イギリスの直接統治

この事件をきっかけに反英運動が高まりをみせると、イギリスは北アイルランド自治を見限って直接統治に乗り出してきた。ユニオニストが指導権を握っている限り妥協点が見つけられそうにない北アイルランドに解決の可能性をつくり出そうとしたのだが、イギリスの直接統治は、イギリス支配を基本問題としているIRAの武力闘争にいっそうの弾みをつけるものであった。また直接統治で行政権限を失ったユニオニストの猛反発はプロテスタント労働者のゼネストや街頭での両派住民の激突になった。
 解決のためのイギリスの努力は1973年のサニングデール協定となった。イギリス政府、アイルランド政府、北アイルランド各派(アルスター・ユニオニスト党UUP、社会民主労働党SDLP、連合党AP)の代表が調印したこの協定は、
(1)北アイルランドの地位は住民の多数が認めない限り変更しない
(2)アイルランド評議会(共和国閣僚と北アイルランド議会議員で構成)を設置する
(3)この評議会を補佐する諮問機関(南北両議会の議員で構成)を設置する
というもので、構成的にはアイルランド政府が入ったこと、内容的にはユニオニストとカトリック双方が加わって行政府を構成するというパワー・シェアリング(権力共有)と北アイルランド問題をアイルランド民族の問題とするアイリッシュ・ディメンションが特徴で、この基本点は今日の和平プロセスにまで続いている。
 しかしパワー・シェアリングはユニオニスト一党支配を崩すもので、ユニオニスト強硬派からいえば、北アイルランドの地位を将来的に不安定にするものであった。一方ナショナリスト強硬派からいえば、このような形態で北アイルランドを安定させることは、南北統一を遠のかせることになるのだった。何度も北アイルランド議会を回復する努力がなされてはユニオニストの抵抗でつぶれ、またIRAはマウントバッテン伯殺害(1979)、イギリス国内でのハイド・パーク爆破(1982)、ハロッズ・デパート爆破(1983)などイギリスそのものに対する闘争を強化していった。その一つの山が1980年末から81年にかけてのハンスト闘争である。政治犯としての待遇復活を要求してハンストに入ったIRAの受刑者の一人ボビー・サンズBobby Sands(1954―81)が獄中からイギリス下院に立候補して当選し、まもなく死亡、続けて計10人がハンスト死した。[堀越 智]

和解への努力

まさに泥沼の状況に陥っていたが、一方では和平に向けての努力も続けられていた。1977年ノーベル平和賞受賞の二人の女性活動家、ベティ・ウィリアムズBetty Williams(1943― )とメアリード・コリガンMairead Corrigan(1944― )を中心にした女性の和平運動が展開されており、ヨーロッパ人権委員会やアムネスティ・インターナショナルなどから北アイルランドにおける人権の実態報告が出された。さらには1979年にジョン・ヒュームがSDLPの党首に、1983年にジェリー・アダムズがシン・フェイン党の党首になると、二人は緊密に協議し始めた。こうした状況下でイギリス政府とアイルランド政府も和平プロセスの骨格づくりを重ねていった。
 1993年12月に両政府が発表したダウニング街宣言は驚きをもって迎えられたが、こうした状況がこの新たな段階をつくり出したのである。この宣言の重要な点はアイルランド民族の自決権をうたったことと、IRAの無期限停戦を条件にシン・フェイン党の協議参加を認めたことである。IRAはこれを受けて1994年8月31日に停戦を宣言、40日余り遅れてユニオニスト系準軍事組織も停戦を宣言した。こうして和平プロセスが本格的に始まるようにみえたが、イギリス政府がユニオニスト(プロテスタント)の意向を受けて、すべての武装解除を前提条件とすることに固執したため進展しなかった。95年2月に両政府が発表した協議のための基本文書はこれまでの諸提案をより具体的にしたものであった。とくに注目されたのは、北アイルランド住民の意思尊重をより強調して、イギリス側は北アイルランドの地位を決めているアイルランド統治法の改正を、アイルランド共和国側は北アイルランドまで含めて領有権を定めている憲法の修正を約束していることであり、また南北両議会の代表によって構成する「南北機構」を設置してヨーロッパ連合(EU)の対応にあたらせるというものであった。前者は北アイルランドのプロテスタントに、後者は南北統一を希望しているカトリックに配慮したものである。
 さらに米大統領クリントンが派遣したミッチェル元上院議員が議長を務める国際委員会が発足したことは、北アイルランド問題がもはやイギリスの国内問題ではなく、民族問題として国際的課題であることを物語っていた。1996年1月に出されたミッチェル委員会報告では、懸案の武装解除問題は前提ではなく和平協議と平行するという二重路線が提案され、最初イギリス政府が受諾を躊躇(ちゅうちょ)するような内容であった。しかし、和平合意以前の武装解除という内容にシン・フェイン党が難色を示す一方、イギリスや北アイルランドのユニオニストはしぶしぶこの提案を受け入れたが、その間の両政府や北アイルランド各政党間の駆け引きとも思える動きは和平プロセスの混沌(こんとん)ぶりを示していた。2月9日にIRAがロンドンのドックランドで大規模な爆破事件をおこして停戦を破棄すると、非難が集中したが、イギリス政府は6月に和平会議を開催すること、その会議への出席者を決める選挙を5月31日に実施することを発表した。この異例の案に、シン・フェイン党も最終的に合意し予定どおり選挙が行われると、シン・フェイン党への支持の強さを示す結果となった。しかしIRAが停戦を行わず、6月10日からの和平協議は形式だけのものになり、IRAの再停戦を促す工作を待つことになった。事態は97年のイギリス総選挙で労働党が大勝することで一転した。過半数ぎりぎりの議席しかもたず議会運営に北アイルランド・ユニオニストの協力を必要としていたメージャー前政権と違って、思い切った政策がとれるようになったのである。しかも北アイルランド労働組合はプロテスタント主体でユニオニスト支持であったが、イギリス労働党はむしろカトリック系穏健派のSDLPと関係が深かったのである。[堀越 智]

和平合意へ

首相ブレア(労働党)が、あらためてIRAの停戦を条件にシン・フェイン党を和平会議に加えることを発表し、武装解除についてはミッチェル報告を確認すると同時にそのための手はずも具体的に示した。イギリス新政権の姿勢をみて、シン・フェイン党はIRAの説得にかかった。IRAも主流は和平への流れを認識しており、1997年7月20日、IRAの再停戦宣言となった。そして9月、シン・フェイン党も加わっての和平協議が始まった。しかし1997年末にプロテスタント過激派のリーダーがメイズ刑務所で殺害されてからプロテスタント過激派とカトリック過激派の報復合戦が繰り返され、98年冒頭から北アイルランドは予断を許さない情勢になったが、ミッチェル議長、イギリス、アイルランド両首相の説得によって4月10日に合意が成立した。それは北アイルランド住民の意思尊重をうたいながら、比例代表制による北アイルランド議会、両派による行政府、南北評議会などについて双方の妥協をとりつけたものであった。この合意は、5月22日に住民投票で承認され、それに基づく北アイルランド議会選挙が6月25日に行われ、7月1日にはUUP党首のデービッド・トリンブルを主席閣僚(首相)、SDLP副党首のマロンSeamus Mallon(1936― )を次席閣僚(副首相)に選出した。同年夏、プロテスタント恒例のオレンジ団行進は一時激しい対立をみてプロテスタント過激派の火炎瓶放火で子供2人が焼死したり、オマーでの爆破事件では29人が死亡、数百人が負傷という大惨事になったが、そのなかでロイヤリスト義勇軍LVF、アイルランド民族解放軍INLAが相次いで停戦し、またオマー事件を起こしたIRAの分派「真のIRA」グループも停戦した。こうして1998年7月に成立した北アイルランド議会は9月に再開し、自治政府組閣の審議を始めたが、軍事組織の武装解除をめぐってユニオニストとナショナリストが対立し、1年以上遅れて99年12月、イギリスからの分権、アイルランド憲法修正(北アイルランドへの領有権放棄)、自治政府組閣、武装解除委員会へのIRA連絡員指名、をこの順序で1日のうちに行うという離れ業的処理の結果、ようやく北アイルランド自治政府が成立した。しかしそのときは、2000年1月までにIRAの武装解除を行わせるとUUP党首トリンブルが党に約束した経緯があり、1月になってそれが果たせないことが明らかになると党内から批判が噴出し、ユニオニスト閣僚が辞任して、イギリスが直接統治を復活するという事態となった。結局IRAが合意どおりに2001年6月までに武装解除を行うという声明を出して、ユニオニストが復帰し自治政府が復活した。しかしその後もドラムクリのオレンジ団はカトリック地区の行進禁止に対する抗議を続行したり、プロテスタント系軍事組織の対立が招いた放火殺人やIRAの分派によるイギリス本土の爆破テロが繰り返されており、これらを契機に和平が一挙に崩れる可能性が残された。また北アイルランド警察の抜本的改革案に関して、穏健派ユニオニストのなかにも不満が高まり、それが合意反対の民主ユニオニスト党支持に向かわせていることも大きな不安材料であった。
 2002年10月シン・フェイン党のスパイ活動疑惑による自治政府内の混乱を受け、イギリス政府の直接統治が復活した。以降、自治政府の機能は停止していたが、2005年7月IRAが武装闘争終結を宣言したため、イギリス政府により自治政府再開が促された。2007年3月の自治議会選挙を経て、同年5月北アイルランドの自治政府が4年7か月ぶりに復活。長年敵対関係にあったプロテスタント強硬派の民主統一党(DUP)とカトリック過激派IRAのシン・フェイン党により連立政権が行われることとなった。[堀越 智]
『鈴木良平著『IRA』(1991・彩流社) ▽小野修著『アイルランド紛争――民族対立の血と精神』(1991・明石書店) ▽堀越智著『北アイルランド紛争の歴史』(1996・論創社) ▽元山健著『イギリス憲法の原理――サッチャーとブレアの時代の中で』(1999・法律文化社) ▽鈴木良平著『IRA(アイルランド共和国軍)――アイルランドのナショナリズム』第4版増補(1999・彩流社) ▽峯陽一・畑中幸子共編著『憎悪から和解へ』(2000・京都大学学術出版会) ▽イアン・ミニス著、宮崎真紀訳『世界の紛争を考える5 北アイルランド紛争』(2003・文溪堂) ▽ポール・アーサー、キース・ジェフェリー著、門倉俊雄訳『北アイルランド現代史――紛争から和平へ』(2004・彩流社) ▽尹慧瑛著『暴力と和解のあいだ――北アイルランド紛争を生きる人びと』(2007・法政大学出版局) ▽一木久生著『ピースライン――北アイルランドは、今』(2007・作品社)』

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