ヒューム(読み)ひゅーむ(英語表記)Sir Alexander Frederick Douglas-Home, Lord Home of the Hirsel

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒューム」の意味・わかりやすい解説

ヒューム(David Hume)
ひゅーむ
David Hume
(1711―1776)

イギリスの哲学者。エジンバラに郷紳(ジェントリ)の末子として生まれ、同地の大学を卒業。法律を学び商業にも従事したが、文芸の志強く渡仏。帰国後に主著『人性論』全3巻(1739~1740)を刊行。家庭教師や、遠縁のセント・クレーアJames St. Clair(1688―1762)将軍との知己による軍事への従事、フランス大使代理などの職も経験する。ロック、バークリーとともにイギリス古典経験論を代表し、その掉尾(とうび)を飾る。

 ヒュームの哲学は人間学または人間本性の学であるが、それはロックに始まった内在的認識批判の立場と、ニュートン自然学の実験、観察の方法とを結合して、人間本性およびその根本原理と、それに依存する諸学の基礎づけを行うことにあった。人間精神の基本的単位は「印象」と、力と生気においてそれに劣る、印象の再現としての「観念」であり、ヒュームは両者を「知覚」と総称し、その源泉として感覚と反省の別をこれに交差させる。原則として観念はそれに先行する印象を基礎にもつが、印象の原因は未知である。知識は観念の連合から成り立ち、連合原理の解明には、ニュートンの万有引力の法則に比すべき人間本性の根本原則としての三つの自然的関係(類似、接近、因果)と、さらに、想像による前記の自然の結合でなく、空想による任意の比較・結合を許す七つの哲学的関係(類似、同一性、時間・空間関係、量または数と性質の程度、反対、原因と結果)の考察が重要だが、ヒュームの因果批判はとくに著名で重要である。因果関係とは、2対象の接近、継起と恒常的連接に基づき、その必然性は、前記の3契機に由来する習慣から生まれた信念に根ざす主観的な「心の決定」の所産にすぎない。物体的実体も知覚の習慣的結合による集合体であり、外界の連続的実在も対象の同一性も想像の虚構の産物である。

 また、バークリーが唯一の実体として認めた精神も「知覚の束」「いくつもの知覚が次々に登場する一種の劇場」にほかならない。したがって、ヒュームの理論哲学は、反面に根強い自然主義を伴いながらも、一種の懐疑主義を帰結し、カントを理性論の独断のまどろみから覚醒(かくせい)させることとなった。『人性論』の2、3巻が情念論、道徳論であることからも明らかなように、実践哲学もヒュームの人間学の重要な対象であった。情念論では、自負、自卑、愛、憎の4基本情念を中心に情念の発生的説明が行われ、道徳論では、道徳的是認・否認が事実や関係に理性的に根づかず、「理性は情念の奴隷」という句が象徴するように、愛憎の変形としての自然な道徳感情に由来すると主張される。だが、彼は社会への有用性という功利主義的尺度を一部とする徳の源泉や「共感」sympathyを道徳的評価の基準にあげ、さらに、感情や共感等の主観的契機を普遍的にする「一般的観点」を不可欠と考えて道徳感覚学派を超えた立場を示す。また、利己心以外に利他心の存在を認めて反ホッブズ的態度を示すが、正義の徳を人為的と考える。

 政治・法思想でもヒュームはホッブズ的自然状態やロック的契約説を批判し、社会・国家の自然主義的発生を説く。宗教論では理神論や自然宗教の立場を継承しながらも、宗教の自然史的説明や目的論的神観の批判を試みた。著作に『人間知性・道徳原理の探究』(1748、1751)、『道徳・政治論集』(1741~1742)、『英国史』(1754~1761)、『宗教の自然史』(1755)、遺稿に『自伝』(1777)、『自然宗教についての対話』(1779)などがある。

[杖下隆英 2015年7月21日]

『古賀勝次郎著『ヒューム体系の哲学的基礎』(1994・行人社)』『杖下隆英著『ヒューム』(1994・勁草書房)』『泉谷周三郎著『ヒューム』(1996・研究社出版/新装版・2014・清水書院)』『斎藤繁雄著『ヒューム哲学と「神」の概念』(1997・法政大学出版局)』『神野慧一郎著『ヒューム研究』新装版(1998・ミネルヴァ書房)』『古賀勝次郎著『ヒューム社会科学の基礎』(1999・行人社)』『ジル・ドゥルーズ、木田元・財津理訳『経験論と主体性――ヒュームにおける人間的自然についての試論』(2000・河出書房新社)』『神野慧一郎著『我々はなぜ道徳的か――ヒュームの洞察』(2002・勁草書房)』『ジル・ドゥルーズ、アンドレ・クレソン著、合田正人訳『ヒューム』(ちくま学芸文庫)』


ヒューム(John Hume)
ひゅーむ
John Hume
(1937―2020)

北アイルランド政治家。イギリス領・北アイルランド和平の立役者で1998年のノーベル平和賞受賞者。北アイルランド・ロンドンデリー生まれ。アイルランド国立大学卒業。イギリス軍、プロテスタント勢力、カトリック勢力が争いを続けている北アイルランドにおいて、1970年、カトリック穏健派、社会民主労働党(SDLP)の創設に参加。1979年党首就任。1983年イギリス下院議員。1980年代後半から、カトリック過激派組織アイルランド共和軍(IRA)の政治組織シン・フェイン党の党首ジェリー・アダムズとひそかに接触を開始。プロテスタント系住民との共存を説いた。1993年にそれが発覚した際には、「テロ組織に手を差し伸べた」として党内外から批判を浴びたが、結果的には、シン・フェイン党をプロテスタント側との和平交渉の席につかせるきっかけをつくった。1998年4月、プロテスタント系最大政党「アルスター統一党」の党首デービッド・トリンブルらとともに北アイルランド和平合意に署名。しかし、心労などで健康を害し、和平合意に基づき発足した北アイルランド自治政府の閣僚には加わらなかった。2001年秋、健康問題を理由に党首を辞任し、2004年2月政界からの引退を表明した。

[尾関航也]


ヒューム(Lord Kames Henry Home)
ひゅーむ
Lord Kames Henry Home
(1696―1782)

スコットランドの判事、哲学者。家庭教師から教育を受けたのち、科学・哲学・法律などの研究に専念し、『1716年から1728年に至る高等民事裁判所の見事な判例』(1728)によって才能が認められる。1752年にはケームズ卿(きょう)の称号を受け、1763年に高等法院判事となる。アマチュアの農学者としても知られ、自ら庭園を設計。文学が人間の精神内部に引き起こす具体的・生動的イメージ、一種の夢想、有徳の共感的情動などを考究した『批評原論』Elements of Criticism(1762)はドイツ語訳(1763~1766)を含め40以上の版が出版され、アメリカでは19世紀末に至るまで修辞学の教科書として用いられた。

[相沢照明 2015年7月21日]

『William C. LehmannHenry Home, Lord Kames, and the Scottish Enlightenment (1971, Martius Nijhoff, New York)』


ヒューム(Thomas Ernest Hulme)
ひゅーむ
Thomas Ernest Hulme
(1883―1917)

イギリスの批評家。スタッフォードシャーの生まれ。ケンブリッジ大学を1904年に退学処分となったあと、第一次世界大戦直前にはベルリンで学んだこともある。08年ロンドンで「詩人クラブ」を、ついで10年ごろから芸術家の小さなサロンをつくり、指導者として影響を及ぼしていたが、大戦勃発(ぼっぱつ)とともに志願入隊して渡仏、17年に戦死した。詩の「イマジズム」運動に加わったことがある。ヒューマニズム、自由主義、ロマン主義に反対して、宗教的態度、古典主義を唱えた。死後出版された『思索集』(1924)によって一躍広く世に知られ、当時の新しい文学運動に理論的根拠を与えた。これと『続思索集』(1955)が彼の全著作である。

[戸田 基]

『長谷川平訳『ヒュマニズムと芸術哲学』(1953・宝文館。原題『思索集』の全訳)』


ヒューム(Sir Alexander Frederick Douglas-Home, Lord Home of the Hirsel)
ひゅーむ
Sir Alexander Frederick Douglas-Home, Lord Home of the Hirsel
(1903―1995)

イギリスの政治家。オックスフォード大学を卒業。1931年保守党下院議員となり、ネビル・チェンバレン首相の秘書などを務めた。1951年父の後を継いで伯爵となって上院入りし、連邦関係相、外相などを歴任。1963年爵位を捨てて首相の座についた。外交は得意であったが、内政、とくに経済問題についての力量に疑問をもたれたまま、1964年の総選挙で敗北、翌1965年ヒースに保守党党首の位置を譲った。1970~1974年のヒース内閣で再度外相を務めたのち、引退した。

[木畑洋一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヒューム」の意味・わかりやすい解説

ヒューム
Hume, John

[生]1937.1.18. ロンドンデリー
[没]2020.8.3. ロンドンデリー
イギリス,北アイルランドの政治家。ローマ・カトリックの信者で教師であったが,1960年代から北アイルランドでの少数派カトリックの権利拡大を求める公民権運動の指導者となり,1969年に北アイルランド議会(イギリスの直接統治により 1973年廃止)で議席を獲得した。社会民主労働党 SDLPを創設し,1979年党首に就任(~2001)。同年ヨーロッパ議会議員に当選(~2004)。1983年イギリス下院議員に当選(~2005)。北アイルランド紛争が深刻化するなか,エドワード・ケネディやダニエル・パトリック・モイニハンらアメリカ合衆国のアイルランド系有力議員に働きかけ,アイルランド共和軍 IRAによるテロに反対する非暴力運動へ支持をとりつけ,北アイルランドの統治について意見を述べる権利をアイルランドにも与えるイギリス=アイルランド合意に結びつけた。またヨーロッパ議会議員としてもヨーロッパ諸国に対し北アイルランド問題に関与するよう促した。国内では北アイルランドのカトリック,プロテスタント両派の共存を訴える仲介役となり,カトリック強硬派のシン・フェーン党を説得して 1998年4月の聖金曜日の合意(ベルファスト合意)にこぎつけた。合意により復活した北アイルランド議会でも議員を務めた(~2000)。1998年プロテスタント勢力の説得にあたったデービッド・トリンブルとともにノーベル平和賞(→ノーベル賞)を受賞。

ヒューム
Hume, David

[生]1711.5.7. エディンバラ
[没]1776.8.25. エディンバラ
デービッド・ヒューム。スコットランドの外交官,歴史家,哲学者,政治および経済思想家。エディンバラ大学に学んだ。1734~37年フランスに滞在し,『人性論』A Treatise of Human Nature(1739~40)をまとめた。1744年エディンバラ大学,1751年グラスゴー大学に職を求めたが,いずれも無神論の疑いで受け入れられなかった。1752年エディンバラ弁護士会図書館司書,1763年駐フランス大使の秘書,1767~69年国務次官を務めたのち,エディンバラに引退した。哲学的には,ジョン・ロック,ジョージ・バークリーと展開したイギリス経験論を徹底化し,因果法則をも習慣の所産であるとし,あらゆる形而上学的偏見の排除を試みた。主著『道徳の原理論』 An Enquiry Concerning the Principles of Morals(1751),『人間知性研究』 An Enquiry Concerning Human Understanding(1758)。

ヒューム
Hulme, Thomas Ernest

[生]1883.9.16. スタッフォードシャー,エンドン
[没]1917.9.28. ベルギー,ニウポルト付近
イギリスの詩人,批評家,哲学者。乱暴なふるまいによってケンブリッジ大学を放校となり,ベルリンで哲学と心理学を学ぶ。第1次世界大戦で戦死。生前は E.パウンドを介してイマジズムの運動を興したほか,ベルグソンの『形而上学入門』や G.ソレルの『暴力論』の翻訳,雑誌論文,数編の短詩を公表しただけであるが,友人 H.リードの編集による遺稿集『省察』 Speculations (1924) が出版されて,原罪をふまえた宗教的世界観,古典主義的芸術観により,T.S.エリオットをはじめ詩人や作家に大きな影響を与えた。『続・省察』 Further Speculations (55) がある。

ヒューム
Hume (Home), Patrick, 1st Earl of Marchmont

[生]1641
[没]1724
スコットランドの政治家。 1665年より政界に入り,ローダーデール (公)の政策に反対して5年間入獄。 85年モンマス (公)の反乱に加担してオランダに亡命。 88年名誉革命に際しオランニェ公ウィレム (ウィリアム3世 ) とともに帰国。以後大法官 (1696~1702) などのスコットランドの要職を歴任し,97年初代マーチモント伯に叙せられ,長老主義確立に努め,イングランドとの合同を支持した。

ヒューム
Hume, Joseph

[生]1777.1.22. モントローズ
[没]1855.2.20. ノーフォーク
イギリスの政治家,社会改革家。エディンバラ大学で医学を修めたのち,1797年にインドに渡り,同地で富を築いた。 1812年に帰国し政界に進出,下院議員をつとめる。自由貿易を信奉し,機械輸出禁止法,労働者の海外渡航禁止法,団結禁止法などの廃止に尽力した。

ヒューム

「ダグラス=ヒューム」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報