アダムズ(読み)あだむず(英語表記)Samuel Adams

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アダムズ」の意味・わかりやすい解説

アダムズ(Robert Adams)
あだむず
Robert Adams
(1937― )

アメリカの写真家。ニュー・ジャージー州生まれ。少年時代に中西部のウィスコンシン州、ついで西部のコロラド州へ転居。カリフォルニア州のレッドランド大学、南カリフォルニア大学で英語学を学び、1965年博士号取得。1962年から1970年までコロラド大学で英語学を教える。1963年より写真を撮り始め、1967年より写真家として作品を発表、また写真に関する執筆活動を行う。

 現代のアメリカ西部の風景に独自の視点でアプローチした作品で注目される。『ザ・ニュー・ウェスト』The New West(1974)、『フロム・ザ・ミズーリ・ウェスト』From The Missouri West(1980)、『それを故郷とすること』To Make It Home(1989。同題の展覧会が同年から翌1990年にかけてフィラデルフィア美術館ほかを巡回)、『コロンビアの西』West from the Columbia(1995)などの写真集、またアメリカ国内外での展覧会を通じて、アメリカ西部における人と土地との結びつきを探求する作品を発表してきた。

 アダムズの主題であるアメリカの西部は、フロンティアとしてその自然環境が無限の可能性と結びつけられてきた土地である。広々とした空間を選び、明瞭な描写を可能にする十分な光量のもと、安定した構図で撮影されたアダムズの写真のなかで、ハイウェーや郊外住宅などの人工物がかつてのフロンティアの空間に自然と並存する現代の西部の景観は、単なる風景美の礼賛でも自然破壊の告発でもない、緊張感をはらんだ光景として定着されている。アダムズの写真は、現実を直視することで、アメリカの建国理念に結びついて神話化されたフロンティアとしての西部の風景を脱神話化する一方、現代の西部の風景をあくまで肯定的に受け入れ、そこに新たな美を見いだそうとする。それはまたアンセル・アダムズに代表されるフロンティア神話と結びついた雄大な自然を称揚する近代アメリカ風景写真の系譜の脱神話化でもあり、写真というメディアによる風景へのアプローチの新たな方向性の模索でもあった。

 アダムズも出品者の一人であった「ニュー・トポグラフィックス」展(1975、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館、ニューヨーク州ロチェスター)をきっかけに、社会学的あるいは環境論的な視座をもふまえ、科学調査のような客観性をもって風景にアプローチする新しい風景写真の動向が、ニュー・トポグラフィックスと呼ばれるようになり、その影響は1970年代後半から1980年代にかけてアメリカだけでなく、ヨーロッパや日本などにも及んだ。

 フロンティアとしての西部の風景というアメリカ固有の主題に取り組んだアダムズの作品も、都市化や郊外といった世界各地で進行する風景の変容への先駆的アプローチとして、固有の文脈を越えて注目された。

[増田 玲]

『The New West; Landscapes Along the Colorado Front Range (1974, The Colorado Associated University Press, Boulder. Reprint 2000, Walter, Berlin)』『From the Missouri West (1980, Aperture, New York)』『Beauty in Photography; Essays in Defense of Traditional Values (1981, Aperture, New York)』『To Make It Home; Photographs of the American West 1965-1986(1989, Aperture, New York)』『Why People Photograph; Selected Essays and Reviews (1994, Aperture, New York)』『West from the Columbia; Views at the River Mouth(1995, Aperture, New York)』『California; Views by Robert Adams of the Los Angeles Basin 1978-1983 (2000, Frankel Gallery, San Francisco/Mathew Marks Gallery, New York)』


アダムズ(John Adams、作曲家)
あだむず
John Adams
(1947― )

アメリカの作曲家。マサチューセッツ州ウースター生まれ。1971年ハーバード大学卒業後、カリフォルニアに移住。1972~1983年サンフランシスコ音楽院で教え、指揮も行った。1978年よりサンフランシスコ交響楽団の現代音楽アドバイザーを務め、また1979~1985年同楽団のコンポーザー・イン・レジデンス(作曲家を招待し、作曲の委嘱、初演を行う)に招かれるなど、このオーケストラとの関係は深い。アダムズの主要作品の多くがサンフランシスコ交響楽団によって初演されている。

 初期の作品は、イギリスの作曲家コーネリアス・カーデューCornelius Cardew(1936―1981)やギャビン・ブライヤーズの影響を色濃く受けたもので、楽器の指定がなく、指揮者もかならずしも必要としない『アメリカン・スタンダード』(1973)といった作品にみられるように、実験的な作風であったが、しだいにミニマル・ミュージックと後期ロマン派の和声や管弦楽的な響きを混ぜ合わせたような「ポスト・ミニマル」という言葉がふさわしいスタイルに変化していった。こうしたスタイルをとった作品『ハルモニウム』(1980~1981)、『ハルモニーレーレ』Harmonielehre(1985)などにより、アダムズの名は広く知られるようになる。

 代表作として知られるオペラ『中国のニクソン』Nixon in China(1987)と『クリングホファーの死』The Death of Klinghoffer(1991)は、演出にピーター・セラーズPeter Sellars(1957― )、台本にアリス・グッドマンAlice Goodman(1958― )、振付にマーク・モリスMark Morris(1956― )らを迎えたコラボレーションで、世界中で上演され話題をよんだ。そのほかのオペラ作品には『アイ・ワズ・ルッキング・アット・ザ・シーリング・アンド・ゼン・アイ・ソウ・ザ・スカイ』I was Looking at the Ceiling and then I Saw the Sky(1995、台本は詩人ジューン・ジョーダンJune Jordan(1936―2002))、オラトリオ『エル・ニーニョ』(2000)などがある。キリスト降誕をテーマにした後者は、ふたたびセラーズとのコラボレーション作品で、ケント・ナガノKent Nagano(1951― )指揮で2000年にパリで初演。日本での初演は2002年(平成14)。

 「ミニマリズムに飽きたミニマリスト」と自称するアダムズであるが、現代アメリカを代表するもっとも著名な作曲家の一人である。1996年アメリカのオーケストラ連盟の調査で、また2003年の時点でのアメリカの存命作曲家のなかで、もっとも頻繁に演奏される作曲家として認められている。また、『室内交響曲』(1992)が1994年のロイヤル・フィルハーモニック協会賞のほか数多くの賞を受賞している。

 アダムズは作曲家としての活動のほか指揮者としての活動も続け、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、デトロイト・オーケストラなど、世界各地の優れたオーケストラやアンサンブルの演奏会へ出演、録音も行っている。またサンフランシスコ交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ドイツの現代音楽グループ、アンサンブル・モデルンなど世界中の楽団、グループからの作曲の委嘱が絶えず、新作はつねに話題になる。

[小沼純一]


アダムズ(Richard Adams)
あだむず
Richard Adams
(1920―2016)

イギリスの作家。バークシャー南西部の都市ニューベリーに生まれ、オックスフォード大学のウスター・カレッジで修士の学位を取得した。第二次世界大戦に従軍し、戦後は25年以上にわたって公務員を務めた。最初の作品『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(1972)がすぐれた児童文学作品として高い評価を受け、カーネギー賞とガーディアン賞を受賞し、1978年にはアニメ映画化された。これは、一族全滅の危機を予感した1羽の若い兎(うさぎ)の予知能力を信じた少数の兎たちが、群れを離れて安住の地にたどりつくまでの、冒険に満ちた遍歴の旅の物語である。キップリングやウォルター・デ・ラ・メアの諸作から強い影響を受けたこの動物擬人化ファンタジーは、兎たちの社会を綿密かつ適確に描き、迫真性のある冒険の連続によって現代人の「生き方」を考察している。

 アダムズは、巨大な熊の出現によって、熊を神とする信仰をもつ種族が、既存の豊かな文化を破壊して新しい支配体制をつくるが、結局は人間性のある文化が復活する長編小説『シャーディック』(1974)で、前作同様に叙事詩的なファンタジーを展開し、その特徴は『疫病犬と呼ばれて』(1977)にも引き継がれている。しかし、この作品の舞台となっている時代は20世紀で、動物実験用の疫病犬が逃げ出し、それが巻き起こす人間社会のさまざまな反応を語っている。これらの作品は、テーマが一見明瞭なために、寓意(ぐうい)の文学を思わせるが、人間についての深い洞察が、多くの問題を読者に投げかける。

 大人の小説『ブランコの少女』(1980)や、イングランドの自然を美しい文と精密な絵によって紹介している『四季の自然』(1975)、『昼と夜の自然』(1978)なども翻訳されている。

[神宮輝夫]

『中村妙子訳『疫病犬と呼ばれて』上下(1979・評論社)』『神宮輝夫訳『シャーディック』上下(1980、1982・評論社)』『井辻朱美訳『コルサンの岩山』(1982・新書館)』『井辻朱美訳『鉄のオオカミ』(1982・新書館)』『神宮輝夫訳『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』上下、新装版(1989・評論社)』『百々佑利子訳『ブランコの少女』上下(1989・評論社)』『デイヴィッド・A・ゴダード絵、リチャード・アダムズ著、岡部牧夫訳『四季の自然』(1978・評論社)』『デイヴィッド・A・ゴダード絵、リチャード・アダムズ著、岡部牧夫訳『昼と夜の自然』(1980・評論社)』『アラン・オルドリッジ絵、リチャード・アダムズ著、田中未知訳『女王陛下の船乗り猫』(1986・角川書店)』『エドワード・ブリッシェン編、神宮輝夫訳『とげのあるパラダイス』(1982・偕成社)』『三宅興子著『イギリス児童文学論』(1993・翰林書房)』


アダムズ(John Couch Adams)
あだむず
John Couch Adams
(1819―1892)

イギリスの数理天文学者。イングランドのコーンウォールの中農家の長男に生まれ、少年期より数理に長じていた。1843年ケンブリッジ大学卒業。在学中に天王星の運動(公転)がケプラーの法則からずれることを知り、その原因が未知惑星による摂動のためであると解釈し、その計算を完成した(1845)。しかし、グリニジ天文台長エアリーに無視された。1846年、パリ天文台のルベリエが同様の計算を発表、それに従ってガルレが海王星を発見したのち、ハーシェルの進言で、アダムズの先見性が公認された。1848年その功により王立協会から最高賞を受け、1851年王立天文学会長、1858年母校の数学・天文学教授、1861年同大学天文台長となる。しし座流星群の軌道についての研究や、月の長年加速の研究でも先駆的な業績を残した。

[島村福太郎]


アダムズ(Henry Brooks Adams)
あだむず
Henry Brooks Adams
(1838―1918)

アメリカの思想家、歴史家、作家。2月16日ボストンに生まれる。曽祖父(そうそふ)は第2代大統領、祖父は第6代大統領、父は駐英公使を務めた政治家で歴史家、兄弟にも歴史家として活躍した人物がいたほどのアメリカきっての名門の出身。ハーバード大学に学び、ベルリン大学に留学、父の秘書として7年間ロンドン生活を送ったのち帰国して母校で中世史を講じ、『北米評論』の編集長も務めた。1885年に妻の自殺にあい、その後は世界各地を旅行して回った。9巻の大著『トマス・ジェファソンおよびジェームズ・マディソン治下の合衆国史』(1889~1891)でアメリカ民主政治の真の姿を自分の目で確かめようとしたが、先に書かれた小説『デモクラシー』(1880)には民主政治への激しいほどの絶望が表現されている。それを新しい史観で説明しようとして数編の歴史論文も書いた。晩年の2著『モン・サン・ミシェルとシャルトル』(1904・私家版)、『ヘンリー・アダムズの教育』(1907・私家版)は、混沌(こんとん)としたアメリカ精神および20世紀世界に対する懐疑と、統一的なヨーロッパ中世世界の精神に対する傾倒を、まれにみる美しい文体で表現した名著であるが、楽天的性向の強いアメリカ精神のなかでは、かならずしも十分に評価されてこなかったうらみがある。1918年3月27日ワシントンで没す。

[後藤昭次]

『刈田元司訳『ヘンリー・アダムズの教育』(1971・八潮出版社)』『野島秀勝訳『モン・サン・ミシェルとシャルトル』(2004・法政大学出版局)』


アダムズ(Jane Addams)
あだむず
Jane Addams
(1860―1935)

アメリカの社会改革者、人道主義者、平和主義運動家。1860年9月6日イリノイ州に生まれる。州議員を長く務め、第16代大統領のリンカーンを敬愛していた父親から強い影響を受けた。ロックフォード大学卒業後、フィラデルフィアの女子医大に学んだが、病のため勉学を断念。失意のまま西欧を旅行中(1887~1888)、ロンドンのスラム街にある施設トインビー・ホールを見学して感銘を受け、帰国後友人エレン・スターとともに1889年9月、シカゴのスラム街にアメリカ初のセツルメント、ハル・ハウスHull Houseを設立、人々とくに貧しい移民の生活改善に努力し、教育、文化活動を推進した。以後、女性参政権運動や腐敗したシカゴの市政改革運動などさまざまな社会改革運動に取り組み、第一次世界大戦を機に強力な反戦平和運動を展開、中心的指導者として国際的にも活躍した。その活動により1931年ノーベル平和賞を受賞。自伝をはじめ多くの著書も残した。1935年5月21日シカゴで死去、生地シーダービルに葬られた。

[太田和子]

『J・アダムズ著、市川房枝記念会・縫田ゼミナール訳『ハル・ハウスの20年』(1996・市川房枝記念会出版部)』『コンウェイ著、吉村俊男訳『ジェーン・アダムズ――アメリカの一女傑』(『日米フォーラム』第11巻9号所収・1965・好学社)』『木原活信著『ジェーン・アダムズ』(1998・大空社)』『木原活信著『J. アダムズの社会福祉実践思想の研究――ソーシャルワークの源流』(1998・川島書店)』


アダムズ(Walter Sydney Adams)
あだむず
Walter Sydney Adams
(1876―1956)

アメリカの天文学者。天体物理学とくに恒星分光学の実地研究での先駆的指導者。1898年ダートマス大学卒業後、ドイツに留学。1901年ヤーキス天文台助手となり、1904年ヘールの招きでウィルソン山天文台に移り、副台長を経て、1923年から1946年まで天文台長を務めた。1931~1934年アメリカ天文学会長、1935~1949年国際天文学連合副会長。1914年、恒星のスペクトル線を判別して、巨星と矮星(わいせい)とを区別し、分光視差法を確立した。1925年エディントンの示唆に基づき、シリウスの伴星のスペクトル線に、重力効果による赤方偏移を検出、白色矮星の高密度と、アインシュタインの相対性理論の証拠とを実証した。なお、スペクトル線のドップラー効果を測定して、地球の公転速度、太陽の自転速度、恒星の視線速度などを精査した。

[島村福太郎]


アダムズ(Gerald Adams)
あだむず
Gerald Adams
(1948― )

通称ジェリーGerry。北アイルランドの政治運動家、政治家。ベルファストに生まれ、1960年代のカトリック公民権運動に参加、アイルランド共和国軍(IRA)の積極的活動家となった。1969年以降の北アイルランド紛争のなかで、1971年にイギリス政府が導入した裁判なしの拘禁制度で数回にわたって拘禁され、1973~1976年には禁錮(きんこ)刑に服した。1978年、IRAと密接な関係にある政党シン・フェイン党の副党首となり、1983年には党首に就任、また同年のイギリス総選挙で下院議員に当選したが、女王への忠誠宣言を拒否して登院はしなかった。1992年には落選したものの、1997年の総選挙では当選、以降イギリス下院議員を務める。1980年代後半、IRAが実力闘争路線から政治闘争重視へと方向転換するうえで中心的役割を演じ、1993年にはカトリック穏健派の社会民主労働党首ジョン・ヒュームと共同で和平の呼びかけを行った。1998年の北アイルランド紛争解決に向けての合意実現に際しても、その推進役となった。

[木畑洋一]


アダムズ(Charles Francis Adams)
あだむず
Charles Francis Adams
(1807―1886)

アメリカ合衆国の外交官、政治家で、歴史家。第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの息子。ヘンリー・アダムズらアダムズ四兄弟の父。8月18日ボストンに生まれる。幼少期を外国で過ごす。ハーバード大学卒業後、文筆活動や文書編纂(へんさん)に関心を示す一方、マサチューセッツ州議会議員、連邦下院議員などを歴任し、共和党結成に参加した。1861年リンカーン大統領より駐イギリス公使に任命され(1868年まで在任)、冷静かつ適切な判断をもって、トレント号事件、イギリスにおける南部連合衝角艦(艦首の水線下に攻撃用の突出部をもつ軍艦)の建造問題など重大な外交問題に対処し、イギリス、フランスなどの南部連合側にたっての干渉を首尾よく防止した。1886年11月21日没。

[横山 良]

『オーティス・ケーリ編『アダムズ家の人々』(1964・創元社)』



アダムズ(John Quincy Adams)
あだむず
John Quincy Adams
(1767―1848)

アメリカ合衆国第6代大統領(在任1825~1829)。第2代大統領ジョン・アダムズの長男として、7月11日、マサチューセッツ州ブレーントリー(現、クインシー)に生まれる。父について滞欧中、フランス、オランダで学び、帰国後弁護士となる。ワシントン、アダムズ両大統領の下でオランダ駐在公使、プロイセン全権公使を務め、1803年フェデラリスト(連邦派)から選出され合衆国上院議員となったが、リパブリカン(民主共和党)のジェファソン大統領の政策に賛成して辞任。1809年ロシア全権公使となり、1814年ガン条約締結の交渉にあたった。イギリス全権公使を経て、1817年モンロー大統領下で国務長官に就任、フロリダ割譲(1819)やモンロー宣言(1823)起草などで活躍した。1825年下院により大統領に選出されたが、このときの下院議員クレイとの取引を非難され、1828年の大統領選挙ではジャクソンに敗れた。1830年合衆国下院議員に選出され、1848年2月23日に死去するまで在職、テキサス併合や奴隷制の拡大に反対した。

[竹本友子]



アダムズ(Ansel Adams)
あだむず
Ansel Adams
(1902―1984)

アメリカの写真家。とりわけ西部山岳地帯の自然景観を対象とした作品で有名。サンフランシスコに生まれる。幼少時よりクラシック音楽を愛好し、ピアニストを志すが、青年期に健康上の理由で断念。写真を撮り始めたのは14歳で、その後、転地療養先のカリフォルニア州シエラネバダのヨセミテで本格的に写真を始める。1930年にポール・ストランドと会い、1932年にはエドワード・ウェストンを中心とした写真家集団「f」に参加、他のメンバーともども大判カメラによる精密で即物的な作風を確立する。また、印画紙焼付けの技術を体系的にとらえた「ゾーン・システム」を編み出し、質の高い印画の制作規範を確立した。

[平木 収]

『アンセル・アダムス写真集『幻想のアメリカ西部』(1982・集英社)』


アダムズ(John Adams、アメリカ合衆国第2代大統領)
あだむず
John Adams
(1735―1826)

アメリカ合衆国第2代大統領(在任1797~1801)。10月30日マサチューセッツ州ブレーントリー(現クインシー)に生まれる。ハーバード大学を卒業後、1758年弁護士となる。1765年印紙法に反対して反イギリス運動を展開、アメリカ独立革命の指導者の一人となった。1774年から二度の大陸会議の代表として、ジョージ・ワシントンの最高司令官就任、独立宣言の起草などに活躍、1778年にはフランスへの使節団に加わった。帰国後マサチューセッツ憲法の起草者の一人となり、また1783年にはパリ条約交渉にあたった。その後イギリス駐在公使(1785~1788)、ワシントン大統領下での初代副大統領(1789~1796)を経て、1796年の大統領選挙に当選。任期中は、革命の起こったフランスとの戦争回避に努力したが、同じフェデラリスト(連邦派)のハミルトンと対立、外人法、治安法制定(1798)の不評と相まって、1800年の大統領選挙ではジェファソンに敗れた。以後著作活動に専念し、1826年7月4日クインシーで死去した。

[竹本友子]



アダムズ(Samuel Adams)
あだむず
Samuel Adams
(1722―1803)

アメリカ独立革命の指導者。9月27日、マサチューセッツ州ボストンに生まれる。第2代大統領ジョン・アダムズの又従兄(またいとこ)。1740年ハーバード大学卒業。1765年マサチューセッツ植民地議会の議員に選出された。印紙法(1765)、タウンゼント諸法(1767)に対する反対運動で、独立革命の基本的命題となる主張を述べ、アジテーターとしての役割を果たして独立革命急進派の指導者の一人となった。1772年マサチューセッツ通信連絡委員会を組織、翌1773年ボストン茶会事件を陰で指導、二度の大陸会議の代表として活躍した。独立革命後は、マサチューセッツ憲法制定会議(1779~1780)の代表となった。しだいに保守的な空気の強まるなかで、彼の影響力も弱まったが、マサチューセッツ州副知事(1789~1793)および知事(1794~1797)を務め、1803年10月2日ボストンで死去した。

[竹本友子]



アダムズ(Roger Adams)
あだむず
Roger Adams
(1889―1971)

アメリカの有機化学者。1月2日ボストンに生まれる。ハーバード大学を卒業(1909)、同大学で博士号を取得(1912)、ベルリン大学およびカイザー・ウィルヘルム研究所(現、マックス・プランク研究所)に学んだ。イリノイ大学教授(1919)、同大学化学部長(1926)、第一次世界大戦中は化学戦部陸軍少佐、第二次世界大戦中は国防科学研究委員長を務め、日本占領軍総司令部科学顧問団長として来日(1947)した。アダムズの酸化白金として知られる触媒や有機ヒ素化合物、局部麻酔剤などの研究がある。1971年7月6日イリノイ州アーバナで没した。

[岩田敦子]


アダムズ(三浦按針)
あだむず

三浦按針

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アダムズ」の意味・わかりやすい解説

アダムズ
Adams, John

[生]1735.10.30. マサチューセッツ,ブレイントリー
[没]1826.7.4. マサチューセッツ,クインジー
アメリカ合衆国の政治家,法律家。第2代大統領(在任 1797~1801)。1755年ハーバード大学卒業。しばらく教鞭をとったのち法律を修め,1758年弁護士の資格を取得。1765年政界に入り,1770年ボストン虐殺事件の殺人の容疑者であるイギリス兵の弁護を引き受け,無罪とした。1771年マサチューセッツの下院議員に選出された。その後,マサチューセッツの代表の一人として植民地の独立を強く主張し,1776年にはアメリカ独立宣言起草委員会委員に任命された(→アメリカ独立戦争)。アメリカ独立後の困難な時期に外国との交渉に活躍。1785年アメリカ最初のロンドン駐在公使に任命された。1789~97年初代大統領ジョージ・ワシントンのもとで副大統領を務めた。1796年の大統領選挙で,トマス・ジェファーソンを破って当選。大統領就任時,外交面では対フランス関係の悪化,国内ではリパブリカンズ(共和派)の副大統領ジェファーソン支持派と,連邦派の指導者アレクサンダー・ハミルトンを支持する閣僚に囲まれ,困難な状態にあった。アダムズ自身フランスと対立する立場をとっていたが,ヨーロッパの紛争には巻き込まれないという外交政策を基本に,かろうじてフランスとの中立を守り通した。そのためハミルトンと意見が合わず,アダムズの平和政策は屈従であると党内から批判され孤立した。結局党をまとめることができず,国内政策では無理をし,外人法および治安法の制定,軍備のための課税などで不評を買った。1800年の大統領選挙でジェファーソンに敗れ,政治生命を絶たれた。

アダムズ
Adams, Hannah

[生]1755.10.20. マサチューセッツ,メッドフィールド
[没]1831.12.15. マサチューセッツ, ブルックリン
アメリカ合衆国の宗教史編纂家。アメリカ最初の職業的女性文筆家といわれる。父は商才のない気難しい愛書家だったため,一家は貧しい暮らしを送った。父の資質を受け継いで,書物好きで並はずれた記憶力を有した。学校教育は受けなかったが,自宅に寄宿する神学生らが家庭教師を引き受けた。学生の一人にトーマス・ブロートン牧師の著書『全ての宗教の歴史辞典』Historical Dictionary of All Religionsを薦められたのを機にさまざまな宗教書を読みあさり,1784年に『キリスト紀元の始まりから今日までの教諸宗派の ABC順による解説』An Alphabetical Compendium of the Various Sects Which Have Appeared from the Beginning of the Christian Era to the Present Dayを上梓した。同書が好評を博し,文筆でなりわいを立てることを決意し,『ニューイングランド史大要』A Summary History of New-England(1799)を著した。そのほかの著書に,『キリスト教の真実ならびに卓越性提要』The Truth and Excellence of the Christian Religion Exhibited(1804),『ユダヤ人の歴史』History of the Jews(1812),死後に出版された『回想録』A Memoir of Miss Hannah Adams, Written by Herself(1832)などがある。

アダムズ
Adams, John Quincy

[生]1767.7.11. マサチューセッツ,ブレイントリー
[没]1848.2.23. ワシントンD.C.
アメリカの政治家。第6代大統領 (在任 1825~29) 。第2代大統領 J.アダムズの長男。 1787年ハーバード大学を卒業。 90年法曹界に入る。連邦派政権下,オランダおよびプロシア公使を歴任。連邦上院議員 (1803~07) として活躍後ハーバード大学の修辞学教授,ロシア公使 (09~14) ,1812戦争に終結をもたらしたヘント (ガン) 条約アメリカ側代表 (14) ,イギリス駐在公使 (15~17) ,J.モンロー政権の国務長官 (17~25) をつとめる。国務長官在任中,フロリダ獲得 (19) ,モンロー宣言作成 (23) に関与。 1824年大統領に当選。大統領として国内交通路の建設に熱意を示したが,憲法厳格解釈主義者たちや南部奴隷諸州の反対にあい,成果をあげえなかった。 28年の大統領選挙では A.ジャクソンに敗北。 31年から没するまでの 17年間,連邦下院議員。その間,奴隷制とその拡大に強硬に反対し続けた。

アダムズ
Adams, Henry Brooks

[生]1838.2.16. アメリカ,マサチューセッツ,ボストン
[没]1918.3.27. アメリカ,ワシントンD.C.
アメリカの歴史家,作家。2人の大統領を出した名門の出身。母校のハーバード大学で中世史とアメリカ史を講じ (1870~77) ,教職辞任後は文筆活動に専念。妻の自殺にも屈せず,アメリカ史の完成に努力した。主著『ジェファーソンとマジソン統治下の合衆国史』 History of the United States during the Administrations of Jefferson and Madison (9巻,89~91) ,ヨーロッパ中世の研究『モン=サン=ミシェルとシャルトル』 Mont-Saint-Michel and Chartres (1904) ,小説『民主主義』 Democracy (1880) ,『エスター』 Esther (84) 。特に自叙伝『ヘンリー・アダムズの教育』 The Education of Henry Adams (1906) は,20世紀文明に対する懐疑と絶望の書として有名。

アダムズ
Adams, Ansel

[生]1902.2.20. カリフォルニア,サンフランシスコ
[没]1984.4.22. カリフォルニア,カーメル
アメリカの風景写真家。少年時代音楽を志したが,写真師の伯父について風景を撮り始め,1927年印象派のタッチを模倣した作品集を出して注目される。 1930年に A.スティーグリッツストレート・フォトグラフィと称する鮮明な映像の影響を受け,1932年 E.ウェストンや P.ストランドの「F64グループ」に属し,大型カメラを使用するようになった。また,写真史上まれにみる技術家としても知られ,1935年『写真作法』 Making a Photographを出版。 1941年に国務省の写真壁画を制作。また 1946年カリフォルニア美術学校を設立し,本格的な写真教育を始めた。主要作品集『これがアメリカの大地だ』 (1960) 。

アダムズ
Adams, Frank Dawson

[生]1859.9.17. モントリオール
[没]1942.12.26. モントリオール
カナダの地質学者。アメリカ合衆国のニューイングランドの名門の家系に生まれ,マギル大学を優等で卒業後,エール大学,ハイデルベルク大学で化学,鉱物学を修める。1890年マギル大学講師となり,1893年地質学教授。ロンドン・ロイヤル・ソサエティ会員,アメリカ地質学会会員(1918会長),カナダ・ロイヤル・ソサエティ会員(1913会長),ロンドン地質学協会会員に選出されたほか,1906年ライエル・メダルなど数々の賞を受賞。1880年に編成されたカナダ地質学探検隊に加わり,研究活動を開始。岩石変形時の圧縮率,内部摩擦などの精密測定を用いた変成作用の研究に優れ,特に先カンブリア時代の結晶質岩石の研究は名高い。主著『地質科学の誕生と発展』The birth and development of the geological sciences (1938) 。

アダムズ
Adams, Samuel

[生]1722.9.27. ボストン
[没]1803.10.2. ボストン
アメリカ独立革命期の愛国派の急進的指導者。独立宣言署名者の一人。 1765年印紙税法に対する民衆の反対運動を組織し,以後「自由の息子たち」を中心にマサチューセッツ湾植民地の特権的支配層に対する政治闘争をも指導。 67年のタウンゼンド諸法に対して,翌年「マサチューセッツ回状」を起草。 72年ボストン通信連絡委員会の創設に努力し,翌 73年ボストン茶会事件で指導的役割を演じた。第2回大陸会議への代表に選ばれ,のち 94~97年マサチューセッツ州知事となった。

アダムズ
Addams, Jane

[生]1860.9.6. イリノイ,シーダービル
[没]1935.5.21. シカゴ
アメリカの社会改革運動家,ハル・ハウスの創立者。ロックフォード大学卒業。ヨーロッパに渡り (1883~85,87~88) ,イギリスで産業革命の結果生じた社会問題に取組んでいたトインビー・ハウスを訪問し (84) ,感銘を受けて帰国。 1889年シカゴにハル・ハウスを創立し都市の社会問題の研究に尽力した。 1915~34年平和と自由のための婦人国際連盟議長として,最悪の社会悪である戦争に反対し,31年ノーベル平和賞を受賞。主著に『ハル・ハウスの 20年』 Twenty Years at Hull-House (1910) ,『ハル・ハウスのその後 20年』 The Second Twenty Years at Hull-House (30) などがある。

アダムズ
Adams, Samuel Hopkins

[生]1871.1.26. アメリカ,ニューヨーク,ダンカーク
[没]1958.11.15. アメリカ,サウスカロライナ,ビューフォート
アメリカの小説家,ジャーナリスト。 1891年にハミルトン・カレッジを卒業。 1901~05年に『マックルールズ・マガジン』にかかわり,以後社会悪暴露のいわゆるマックレーカーズの1人として雑誌などに告発文を発表した。また小説のいくつかは映画やミュージカルの題材となり,34年 F.キャプラ監督により映画化された『或る夜の出来事』 It Happened One Nightがアカデミー賞主要部門を独占した。主著『運河都市』 Canal Town (1944) 。

アダムズ
Adams, William

[生]1564.9.24頃.ケント,ジリンガム
[没]元和6(1620).4.24. 平戸
日本に来た最初のイギリス人。日本名三浦按針。イギリスで造船,航海術を学び,スペイン艦隊との海戦に参加。のち 1598年ロッテルダムからオランダ東洋探検船隊に水先案内人として参加,太平洋上で漂流,慶長5 (1600) 年3月 16日,『リーフデ』号で豊後佐志生 (さしう) に漂着。徳川家康に仕え,江戸日本橋按針町に屋敷を,相模の逸見に 250石の領地を与えられ,外交顧問として重く用いられるかたわら,オランダ,イギリスの平戸商館設置に尽力,朱印船貿易家としても活躍した。

アダムズ
Adams, Charles Follen

[生]1842.4.21. マサチューセッツ,ドーチェスター
[没]1918.3.8. マサチューセッツ,ロックスベリー
アメリカ合衆国の詩人。方言を用いてユーモラスな詩を書いた。南北戦争に従軍して負傷,捕虜となった。1872年から雑誌や新聞に,ペンシルバニア・ダッチと呼ばれるドイツ語方言で,ユーモラスな詩を書き始めた。作品に,"Leedle Yawcob Strauss, and Other Poems"(1877),"Dialect Ballads"(1888),挿絵つき詩集 "Yawcob Strauss, and Other Poems"(1910)。

アダムズ
Adams, John Couch

[生]1819.6.5. コーンウォール,ラニースト
[没]1892.1.21. ケンブリッジ
イギリスの天文学者,数学者。セントアンドルーズ大学教授 (1858) ,ケンブリッジ大学教授 (59) を経てケンブリッジ大学天文台台長 (61~92) 。 1841年ケンブリッジ大学の学生のとき天王星の運動の不規則性に注目,U.ルベリエとは独立に海王星の存在を予言。その正確な位置を予測してケンブリッジ大学天文台に観測を要請した (45) が,海王星の発見は,ルベリエの要請に基づいて 46年9月ベルリン王立天文台でなされた。月の運動理論,しし座流星群の軌道研究,地磁気の研究なども名高い。

アダムズ
Adams, Roger

[生]1889.1.2. ボストン
[没]1971.7.6. イリノイ,シャンペーン
アメリカの有機化学者。ハーバード大学卒業後,チューリヒ,ベルリン両大学,カイザー・ウィルヘルム研究所に留学。ハーバード大学講師 (1913) 。イリノイ大学教授 (19) 。強力な酸化白金触媒 (→アダムズ触媒 ) の製法を発見。多くの天然物質の化学的組成の研究,立体化学の研究でも知られている。第2次世界大戦中は政府の科学顧問をつとめ,占領軍総司令部科学顧問団団長として 1947年に来日したこともある。

アダムズ
Adams, Walter Sydney

[生]1876.12.20. シリア,アーンターキア
[没]1956.5.11. カリフォルニア,パサディナ
アメリカの天文学者。宣教師の子。8歳でアメリカに渡り,ダートマス大学,シカゴ大学で天文学を専攻。のちドイツに留学,ミュンヘン大学に学ぶ。ウィルソン山天文台に入り (1904) ,のち台長 (23~46) 。天体分光学の研究に従事。シリウス伴星のスペクトル線偏移の確認,太陽黒点の分光分析,恒星の距離と速度の決定,惑星大気の研究などが知られる。またパロマ天文台の 200インチ (約 508cm) 反射望遠鏡建設に尽力した。

アダムズ
Addams, Charles (Samuel)

[生]1912.1.7. ニュージャージー,ウェストフィールド
[没]1988.9.29. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカの漫画家。雑誌『ニューヨーカー』掲載の恐怖漫画で知られ,その第一人者とされる。 1937年のある夜,白紙に古城を描き,そこにふさわしい住人として幽霊を思いつき,これがのちにテレビ化された「アダムズ・ファミリー」誕生のきっかけとなった。主要作品『アダムズと悪魔』 (1947) 『チャールズ・アダムズのマザーグース』 (1967) 。

アダムズ
Adams

アメリカ合衆国,マサチューセッツ州北西部のグレイロック山 (1064m) の山麓にある町。 18世紀中頃クェーカー教徒が移住。初めイーストフーサックと呼ばれたが,のちアメリカ独立戦争の英雄サミュエル・アダムズにちなんで名づけられた。建築用石材を産するほか,繊維,紙などの製造業が立地。付近は州立森林公園やスキー場もあって保養地の中心をなす。人口 9445 (1990) 。

アダムズ
Adams, William Taylor

[生]1822.7.30. マサチューセッツ,ベリンガム
[没]1897.3.27. ボストン
アメリカの児童文学者。筆名 Oliver Optic。ボート・クラブ・シリーズ (1854) ,陸海軍シリーズ (61~67) など,主として連作から成る 100編以上の作品があり,児童向きの雑誌も編集した。

アダムズ
Adams, Charles Francis

[生]1807.8.18. ボストン
[没]1886.11.21. ボストン
アメリカの外交官。第6代大統領 J.Q.アダムズの子。弁護士。 1840年ホイッグ党員として州下院議員。 58年共和党の連邦下院議員。 61年南北戦争時にイギリス駐在大使となり,アメリカの権益の代表として活躍した。

アダムズ
Adams, Abigail

[生]1744.11.11. マサチューセッツ,ウェイマウス
[没]1818.10.28. マサチューセッツ,クィンシー
アメリカ第2代大統領 J.アダムズの夫人。賢夫人として知られ,独立革命期から 19世紀初めにかけて女性の権利など,諸問題について言及した手紙を多く残した。

アダムズ
Adams, Maude

[生]1872.11.11. ユタ,ソルトレークシティー
[没]1953.7.17. ニューヨーク,タンナーズビル
アメリカの女優。子役として『アンクル・トムの小屋』などで活躍。その後『ロミオとジュリエット』や『ピーター・パン』ですぐれた演技を見せ,1934年引退した。

アダムズ
Adams, Sarah

[生]1805
[没]1848
イギリスの女流詩人。賛美歌の作者として知られ,特に『主よみもとに近づかん』 Nearer,my God,to Thee (1840) は有名。ほかに劇詩『永遠のビビア』 Vivia Perpetua (41) など。

アダムズ
Adams, Herbert Baxter

[生]1850.4.16. マサチューセッツ,シューツベリー
[没]1901.7.30.
アメリカの歴史家。ジョンズ・ホプキンズ大学教授。弟子に第 28代大統領 W.ウィルソンや歴史家 F.ターナーらがいる。アメリカ歴史協会の創設に活躍。

アダムズ
Adams, Charles Kendall

[生]1835.1.24. バーモント,ダービー
[没]1902.7.26. カリフォルニア,レッドランズ
アメリカの歴史家。コーネル,ウィスコンシン両大学の学長。ヨーロッパのセミナー方式をアメリカに紹介した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報