北小松村(読み)きたこまつむら

日本歴史地名大系 「北小松村」の解説

北小松村
きたこまつむら

[現在地名]志賀町北小松

琵琶湖畔から北西山中にかけて村域があり、南は南小松村、北の鵜川うかわ(現高島郡高島町)はもと当村の枝郷であった。寛永石高帳に高一千一七六石余とあり、一千七六石余は幕府領、一〇〇石は白鬚しらひげ大明神(現高島町)領。慶安高辻帳では田方五〇三石余・畑方二七石余・永荒六四五石余。元禄郷帳では高九七六石余で、三上藩領と旗本黒川領。この時は枝郷鵜川村が独立している。天明村高帳では高八八二石余で、幕府領。文政石高帳では高八八八石余で幕府領。天保八年郷帳では幕府領五二五石余、堅田藩領三六二石余。旧高旧領取調帳では堅田藩領が下野佐野藩領となり、法泉ほうせん寺除地四斗余が記される。

慶長検地の際、従来当村領で打下うちおろし(現高島町)の出作地であった鵜川の高二五〇石余の田地を打下村百姓の直接支配とした。延宝検地後、これを自村領と主張する鵜川村と反対する当村との間で紛争となり、正徳元年(一七一一)同時に紛争の対象となった山方・浦方の境界とともに裁許が下された。


北小松村
きたこまつむら

[現在地名]四日市市北小松町

鎌谷かまたに川と内部うつべ川に挟まれた低地にあり、両河川は当村の東で合流する。村の西は低い丘陵。内部川の南は南小松村、北東貝家かいげ村がある。「神鳳鈔」に「小松御厨一斗、六九十二月」と出る。織田信雄分限帳では、天正一二年(一五八四)以前、後藤氏が「小松村郷」で三〇〇貫文を知行していたことが知られる。江戸時代は、初め亀山藩領、のち上総一宮藩領、その後再び亀山藩領。


北小松村
きたこまつむら

[現在地名]松本市里山辺 北小松

すすき川右岸台地にあり、東南は薄町・はやしに、西北筑摩つかま荒町あらまちに接する。

寛永六年(一六二九)に小松村が北小松村と南小松村に分れ、同一九年の信州松本御領分村々高附帳に二八八石六升五合となっている。「信府統記」によると「御朱印高百八拾八石八斗七升六合」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は三三〇石七斗六升二合である。寛文年間(一六六一―七三)水田は一二町三段九畝二一歩、畑地は九町二段七畝二四歩である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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