小松村
こまつむら
[現在地名]甲府市小松町・西田町
塚原村の南西に位置し、南東部を相川が南西へ流れる。西に家続きとなる和田村とは生活・風習に共通点が多いという。古くは万力筋の小松村(現春日居町)を東小松と称したのに対し、西小松とも称した。小松町諏訪神社旧蔵の文明一八年(一四八六)二月二一日付の棟札銘(甲斐国志)などにみえる小松庄の遺称地。天文二二年(一五五三)三月六日には小松ほか四郷の人足押立公事などが免除された(高白斎記)。永禄四年(一五六一)の番帳の二九番にみえる「西小松のねき」は諏訪神社神職をさすとみられ、府中八幡への勤番が命じられている。天正五年(一五七七)八月二五日には祇園寺法輪院が西小松に新造した寺家の諸役が免除された(「武田勝頼判物」武田家文書)。同一〇年八月一六日・同一二月九日、翌一一年閏正月一四日の各徳川家康印判状(早稲田大学所蔵文書)では、長井又五郎(吉昌)に小松屋敷五貫文が安堵されている。現在も永井丁・古屋敷の小字が残ることから、この小松屋敷も当地であろう。甲州古城勝頼以前図(恵林寺蔵)には、躑躅が崎館の西方に小松村と記されている。
小松村
こまつむら
[現在地名]浜北市小松
現浜北市域の南西部、馬込川上流左岸に位置する。長上郡に所属。応永六年(一三九九)九月一八日の管領畠山基国奉書(宝鏡寺文書)に「小松郷」とみえ、幕府は祝田郷(現細江町)などとともに小松郷を幕府料所とし、足利義満の側室寧福院に交付している。同郷は寧福院没後に娘の今御所に譲られ、同三〇年一〇月二九日、幕府は御料所代官に小松郷ほかを渡し付すよう遠江守護斯波義淳に命じている(「管領畠山満家奉書」同文書)。嘉吉元年(一四四一)七月三〇日、幕府は遠江守護斯波千代徳(義健)に今御所領である小松・祝田などに対する本主の乱入を止めるよう命じている(「管領細川持之奉書」同文書)。
小松村
こまつむら
[現在地名]田尻町小松
諏訪峠村の東方、篦岳丘陵の一部とその南西を占め、かつて千枝沼あるいは大崎沼とよばれた低平地を村域とする。北方に天狗堂山があり、栗原郡高清水村(現高清水町)との境をなし、東は八幡村で田尻宿、荒谷宿(現古川市)への道が通る。北小松と南小松がある。「延喜式」神名帳に載る新田郡子松神社は当地にあったとされる。正保郷帳に村名がみえ、田三二貫一八七文・畑五貫二四〇文で旱損と注され、ほかに新田七貫九四四文。「安永風土記」では田五八貫九八〇文・畑六貫五七七文(うち茶畑一八六文)で、蔵入四貫四二〇文。
小松村
こまつむら
[現在地名]神崎町小松
神崎新宿の南西に位置し、銚子道が通る。中世は神崎庄に属し、正元元年(一二五九)一二月一三日の左衛門尉師時証文(神崎神社文書)に「神崎大□□御領庄内」として小松郷三反とみえる。同二年三月一〇日の左衛門尉師時配分状(同文書)には庄内に配分された神崎大明神御領田数三六町・畠四町九段の内として「小松分 四町六段 畠九段 社人屋敷七ケ所 関所」とみえる。師時は千葉介常胤の孫師胤の子(千葉大系図)。建治二年(一二七六)五月六日の某下文(同文書)にみえる神崎大明神御領庄内四郷村々の内の一郷か。また正元二年の前掲配分状の小松分にみられる関所は、文永九年(一二七二)一二月一二日の関東下知状写(伊豆山神社文書)にみえる神崎関にあたると推定され、現小松の小字に関がある。
小松村
こまつむら
[現在地名]大島町大字小松・大字小松開作・大字笠佐島
屋代島の北西に位置し、北東は三蒲村、東は屋代村、南は志佐村、西は海に面し、海上に笠佐島を望む。村の北部は飯の山の山地が広がり、南部は屋代川の下流にあたる平地が広がる。
慶長一五年(一六一〇)の検地帳では「屋代庄」の一部として記され、「地下上申」に「屋代小松村」として現れる。「注進案」では屋代村から分れ、小松村と記す。村名の由来は「人ありて八幡山ニ松苗数本を植し、此松盛ニ繁りて幾久敷例をよろこび所名を小まつ小まつと云習らハせ候」(注進案)とある。
小松村
こまつむら
[現在地名]春日居町小松
寺本村の東に位置する。村の南東を笛吹川が流れ、南部で日川・重川と合流する。東は笛吹川を挟んで大野村(現山梨市)。「王代記」によると、明応二年(一四九三)一一月小松で甲斐に侵攻した今川軍と武田軍との間で合戦が行われている。天正一一年(一五八三)四月一八日の徳川家康印判状写(社記)によれば、小松のうち三三〇文などが山梨岡神社の神領として安堵されている。慶長古高帳では高四四四石余、幕府領。ほかに天神領一石余・長慶寺領一石余がある。
小松村
こまつむら
[現在地名]西宮市小松町一―二丁目・小松北町一―二丁目・小松南町一―三丁目・小松西町一―二丁目・小松東町一―三丁目・里中町一―三丁目・学文殿町一―二丁目・小曾根町四丁目・花園町
武庫川右岸、小曾根村の南にある武庫郡の村。村域中央部を中国街道が東西に走る。慶長国絵図に村名がみえ、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳によると蔵入地。同年尼崎藩領となり(「尼崎藩戸田氏知行目録」大垣藩地方雑記)、幕末に至る(旧高旧領取調帳)。
小松村
こまつむら
[現在地名]表郷村小松
社川の支流藤乃川上流左岸に位置し、南は高萩新田村、東は宮村、北は板橋村(現白河市)、西は関辺村(現同上)。康永二年(一三四三)と推定される一一月二八日の結城親朝譲状案(伊勢結城文書)に「陸奥国白河庄□□郷金山・上社・下社・屋森・小松」とあり、白河庄内の所領等が子息朝常に譲与された。江戸時代は初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)以降越後高田藩領。白河古領村郷高帳では高八九一石余。文化一三年(一八一六)の家数四三(うち水呑一一)、人数男一〇二・女七二(「五人組帳」福島県史)。助郷は奥州道中白坂宿(現白河市)に出役。
小松村
こまつむら
[現在地名]会見町金田
井上村の東、小松谷川上流右岸に位置する。南東は宮谷村、南西は御内谷村。近世、当地を中心とする小松谷川の上流域一帯は小松庄と通称されていた。宮谷村には小松城跡があり、建武三年(一三三六)七月日の出雲国造舎弟貞教軍忠状(千家文書)には「小松城大手」とみえる。また御内谷村雲光寺の天正五年(一五七七)一一月七日の寺領坪付(伯耆志)には「会見郡小松村之内寺領」などとある。
小松村
こまつむら
[現在地名]宮崎市小松
浮田村の北東に位置し、東は大淀川を境に下北方村。宮崎郡に属した。高岡(現高岡町)方面へ向かう往還が通り、浮田村に至る坂道は戦傷越(千町越)とよばれた。また大淀川には名田渡が設けられ、渡船一艘があった(日向地誌)。鎌倉―南北朝期には浮田庄に含まれ、同庄小松方とよばれた。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録に小松三〇町とあり、高橋元種領となっている。
小松村
こまつむら
[現在地名]成東町小松
松ヶ谷村の東に位置し、北部は道面まで東金道が通る。南東部は海に面しており、小松浜の集落がある。観応三年(一三五二)七月四日、足利尊氏が鎌倉宝戒寺に造営料所として工藤中務右衛門跡の上総国武射郡内小松村などを寄進している(「足利尊氏寄進状案」宝戒寺文書)。千葉氏胤は同地の遵行を命じられている(文和元年一二月二〇日「足利尊氏御教書案」同文書)。
文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五三一石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では横地組に属し、旗本秋山・河野領。安永三年(一七七四)の武射郡各村高支配帳(渡辺家文書)では河野領のほか旗本権太・中川・杉田領。
小松村
こまつむら
[現在地名]広見町小松
広見川中流域に位置する。東は延川村、西は下大野村に接する。
当村にある善光寺の薬師如来像の正平一三年(一三五八)七月付の胎内銘に「大日本国 伊予州宇和荘、小松村」と村名がみえる。また慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項にも「小松村 柴山有、茅山有、川有」と記される。吉田藩領。
太閤検地の石高は四四八石一斗で、正保検地では八六七石六斗六合となっている。
嘉永六年(一八五三)に小松村騒動が発生している。これは幕末における宇和郡内の典型的な村方騒動である。
小松村
こまつむら
[現在地名]矢本町小松
矢本村の北に位置し、北辺を中江川・定川が東流する。旭山丘陵の南東部山麓一帯に集落を形成。「安永風土記」によれば地蔵堂の東にあった形のよい小松が地名の由来と伝える。また山麓に鷹の池とよばれる池があり、源義経遺愛の鷹が飛来しその水を飲んだという。正保郷帳では田五〇貫八七〇文・畑六貫八九四文で旱損と注され、ほかに新田二五貫二一〇文。「安永風土記」によれば田一八三貫九七六文・畑一五貫七八二文、うち茶畑二八文。蔵入四三貫五九六文でほかは給所。人頭一一六人、うち寛文七年(一六六七)検地時の竿答百姓六一人。家数一六六(うち水呑四八・借屋三)、男四五一・女三七四、馬一一六。
小松村
こまつむら
[現在地名]羽生市小松
会の川左岸の自然堤防とその後背湿地を含む地域からなる。東は加羽ヶ崎村、東から南にかけて用水路を境として須影村・砂山村。地名は地内の小松寺に由来するという(風土記稿)。天正二年(一五七四)と推定される年欠八月九日の小山秀綱書状写(常陸遺文)に「小松」とみえ、羽生城攻めのために七月二八日出馬した北条氏政が、忍(現行田市)と羽生の間にある当地に布陣していた。田園簿によれば田高二六六石余・畑高三〇四石余、幕府領。ほかに小松寺領二〇石余があった。国立史料館本元禄郷帳では旗本藤枝領と小松寺領・熊野八幡社領。
小松村
こまつむら
[現在地名]土浦市小松一―三丁目・小松ヶ丘町
下高津村の東に位置し、霞ヶ浦南西岸の低地と南の台地勢至岡にまたがる。応永一二年(一四〇五)一〇月三日の真言院支配在所注文(税所文書)に「当院支配在所注文 信太庄小松郷」とあり、信太庄にあって真言院の支配所としてみえる。
天正一八年(一五九〇)に結城秀康領となり、文禄四年(一五九五)三月五日に検地が行われた(「常陸国信太庄小松村御縄打水帳」広瀬正雄氏蔵)。検地帳は五冊全部が現存するが、田畑の面積はほぼ同じで、下田・下畑が圧倒的に多い。慶応元年(一八六五)頃作製の小松村絵図(国立史料館蔵)には田は早・中・晩稲田と記され、早稲田の面積が最も多く、晩稲田は畑や山に囲まれた所に多い。
小松村
こまつむら
[現在地名]武生市上小松町・小松一―二丁目
大塩谷の中央南側にある。中世の大塩保内に含まれ、慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「大塩村印内分」として高四〇三・五五石が記されるのが当村。正保郷帳では印内村とあり、田方三七九石余・畠方二三石余。福井藩領。隣郷に同名村があることから、宝永六年(一七〇九)八月、変更を願い出、小松村と改称したという(「御家老中御用留抜集」松平文庫蔵)。寛政四年(一七九二)の支配下村々高家人数留(「越前宗門帳」所収)によれば、家数三二(うち高持一四・雑家一六)・人数八五。
小松村
こまつむら
[現在地名]北山村小松
下尾井村の西南、西峯(一一二三・一メートル)の南方にあり、北山川が村を囲繞して流れる。川上に上小松、川下に下滝の小名がある。慶長検地高目録によると、村高八石余、小物成一・〇三二石。慶長一九年(一六一四)の北山一揆に当村も加わり、結局成敗された(紀伊国一揆成敗村数覚書「東牟婁郡誌」所収)。新宮北山組に属し、「新宮領分見聞記」では高一一石余、家数一一。
小松村
こまつむら
[現在地名]窪川町東川角
四万十川左岸、東川津野村の北にある南北に細長い村。「仁井田郷談」(「南路志」所収)によれば、古くは仁井田庄本在家郷一二村の一。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳に村名はみえず、川津野村分に「小松谷」の地名が記される。元禄地払帳では総地高一〇七石余、うち本田高九六石余、新田高一一石余。
小松村
こまつむら
[現在地名]利根村小松
根利村の北、根利川右岸に位置する山村。利根郡に属した。寛文郷帳によると高一九石余(畑方のみ)、沼田藩領。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高八八石余。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控では高一一石余。貞享三年の沼田稼山境論訴状(星野文書)によると、当地北方の山は古くから沼田藩領で、当村ほか近在の沼田藩領一〇ヵ村の山稼が認められていたが、根利村が前橋藩領の山であるとして山稼を行い相論が絶えなかった。沼田藩真田氏改易後は幕府領の御留山となり、絵図を作成して代官所へ差上げたが、なお根利村からの押領が続くとして一〇ヵ村は幕府代官所へ訴え出ている。
小松村
こまつむら
[現在地名]両津市白瀬
南は白瀬村、北は玉川村、後背地西方にかけ外海府の村々と入会い、東は両津湾に面する。集落は白瀬川北側の海岸低地にある。元禄七年(一六九四)の検地帳(白瀬区有)では、田八反余・畑五反余で、名請人六人。御林は石塚に一ヵ所あり、屋敷は北城・南城・中村にある。天保九年(一八三八)の書上帳(橘鶴堂文庫蔵)では、戸口は六軒・二八人。
小松村
こまつむら
[現在地名]安田町小松
阿賀野川右岸に位置し、東は石間村(現東蒲原郡三川村)、西は草水村。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「左鳥 小松」七四石七斗四升とあり、うち二七石六斗一升は給人平左の持分。近世を通じて会津藩領で、文化期(一八〇四―一八)の「新編会津風土記」によれば家数五一・東西三町四〇間・南北二二間。
小松村
こまつむら
[現在地名]宮津市字小松
東を中野村、西を国分村、南は溝尻村に囲まれる。
近世初期には慶長検地郷村帳にみえる「府中郷」に含まれたと思われ、延宝三年郷村帳に「府中小松村」高八二・四四九石と記される。同九年(一六八一)の延高で一六〇石余となった(天和元年宮津領村高帳)。
小松村
こまつむら
[現在地名]大川村小松
船戸村の西、吉野川左岸にある。本川郷の一村で、宝永三年(一七〇六)の「本川郷風土記」(南路志)によれば東西一〇町余南北三〇町余、「惣体土地黒、但在所南向南下之所也」と記す。近世の郷帳類には村名はみえず、船戸村に含まれる。
慶長一六年(一六一一)の本川之内高野村検地帳に村名がみえ、五筆で三反。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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