日本の城がわかる事典 「北方城」の解説 きたかたじょう【北方城】 岐阜県本巣郡北方町にあった戦国時代の平城(ひらじろ)。同県指定史跡。揖斐川にに突きだし円錐形の山の山頂部に築かれていた城である。南北朝時代初めの建武・延元年間(1334~39年)に、南朝方に与して北朝方の土岐氏と戦った吉田休三入道によって築かれたとも、あるいは明応年間(1492~1501年)に、西美濃の武将・伊賀太郎衛門光就が築城したともいわれている。いずれにせよ、戦国時代には安藤氏が居城としていた城である。光就から4代目の城主の守就は安藤氏に改姓した。守就は美濃守護の土岐頼芸に仕えていたが、斎藤道三が頼芸から美濃を奪うと道三に従い、稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と呼ばれた。道三と嫡男斎藤義龍との対立が激化して1556年(弘治2)には長良川の戦いに至るが、守就は義龍に与し、義龍が没すると龍興に仕えた。1567年(永禄10)に織田信長が美濃に侵攻した際、西美濃三人衆は織田方に内応し、信長が美濃を制圧するきっかけをつくった。その後は信長に仕え、引き続き北方城主をつとめた。しかし、守就は1580年(天正8)、信長から甲斐の武田勝頼と内通したと嫌疑をかけられ、織田家から追放され、城も失った。守就ら代わって北方城主となったのは稲葉良通である。1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀により討たれると、安藤守就・尚就父子は挙兵し北方城を奪って再起を図ろうとした。しかし、安藤父子が籠城した北方城は、稲葉一鉄・貞通父子に攻められて落城した(北方合戦)。この戦いののち北方城は廃城となった。1668年(寛文8)、北方城の跡地に、旗本5000石の戸田光直(戸田光賢、加納藩主松平光重の三男)の陣屋(北方陣屋)が築かれた。以後、北方陣屋は戸田氏代々の居館として明治維新まで存続した。現在、山頂のかつての主郭部は、桜の名所として知られる城山公園になっている。山中には曲輪(くるわ)、堀切などの北方城の遺構が残っている。名鉄揖斐線本揖斐駅からバス。または、JR岐阜駅(バスターミナル)からバス、岐阜農林高前あるいは北方一本松下車後、いずれも徒歩約5分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報