日本の城がわかる事典 「北条城」の解説 きたじょうじょう【北条城】 新潟県柏崎市にあった中世の山城(やまじろ)。鯖石川と長鳥川に囲まれた標高140mの丘陵に、主郭のほか北郭、二の郭、三の郭で構成されていた。越後毛利家3代目当主の毛利時元によって築城されたともいわれるが、築城年代はわかっていない。城山の山腹には毛利時元の墓所がある。その後、越後毛利氏は嫡流の越後北条氏と安田氏に分裂したが、北条城は代々、越後北条氏の居城となった。1554年(天文23)、長尾景虎(のちの上杉謙信)の部将で、同城の城主だった北条高広が敵対していた武田信玄と通じて反乱を起こしたが、その時、拠点としたのがこの城である。翌1555年(天文24)、北条城は景虎勢に包囲され落城。高広は景虎に降伏して、再び景虎に仕えた。その後、高広は謙信に抜擢され上野国の厩橋(まやばし)城(群馬県前橋市)の城主となったが、北条の所領を引き続き領有した。謙信の死後の1578年(天正6)、謙信の2人の養子(上杉景勝と上杉景虎)の間に、その家督の相続をめぐって御館の乱が起こったが、高広とその子景広は上杉景虎方に属したため、1581年(天正9)に景勝方に攻められて北条城は落城した。景広は直江兼続に謀殺されたともいわれるが、高広は生き延びた。高広はその後、武田勝頼、滝川一益に仕えたといわれるが、その消息はくわしくわかっていない。現在、城跡には郭・土塁・物見・堀切・竪堀・大手門・搦手門などの遺構が点在している。かつての大手門の位置には専称寺が、搦手門のあった場所には普広寺が建っている。JR信越本線北条駅から徒歩10分。北条駅からは、「北条いにしえロード」と名づけられた散策路が整備されている。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報