織豊期の武将。左近将監と称する。河内国出身で幼年から鉄砲を稽古し,織田信秀が斎藤道三を攻めたとき信長に仕えたと伝えるが,1556年(弘治2),57年ごろに信長が尾張津島の堀田道空の庭で踊を張行したときには有力部将とともに名を連ねている。67年(永禄10)春には北伊勢攻略にあたり,69年8月からの大規模な中南勢攻略には中核として働き,安濃津(津)に居城し伊勢湾を管した。73年(天正1)の長島一揆攻撃では伊勢矢田城に入城,翌年7月の一斉攻撃には海上からの攻撃に当たっている。75年の長篠の戦には徳川家康とともに先陣を務め,8月からの越前攻略に参陣。76年の天王寺での一向宗徒攻撃,78年の石山本願寺攻撃に参加,6月に九鬼嘉隆の6艘のほかに一益も1艘の鉄甲船を仕立てて大坂方の小船に大打撃を与えている。80年,81年に後北条氏の使者の信長への取次ぎに当たり,東国筋の担当を始めた。82年織田信忠の甲信攻略に付き添い3月に武田勝頼を討死させ,上野国と信濃2郡を与えられ厩橋(まやばし)城主として関八州の警固と東国の取次ぎを命じられた。同年6月の本能寺の変後,後北条氏と神無川で戦って敗れ,本領の長島に帰った。清須会議の後,織田信孝,柴田勝家と同盟して豊臣秀吉と争ったが,83年7月秀吉に降伏した。翌年,小牧・長久手の戦で膠着状態になったとき,尾張南岸に橋頭堡を確保する作戦から秀吉に用いられた。織田信雄の本拠長島城と清須城の中間にあり,一益旧縁の地である蟹江城を海上からの鉄砲奇襲作戦と内応策で奪い取ったが,《老人雑話》が〈蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり〉と表現するような家康軍の猛攻によって開城した。秀吉は一益の長子は追放したが,先約に従って一益に3000石を,次子に1万2000石を与えた。一益は越前大野に引退し,同地で没した。
執筆者:小島 広次
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(小和田哲男)
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安土(あづち)桃山時代の武将。織田信長の老臣。左近将監(さこんのしょうげん)。号は不干。滝川氏は紀氏の一族、河内高安荘司(かわちたかやすのしょうじ)。近江(おうみ)(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼年から鉄砲を稽古(けいこ)した。一族の高安某を殺害し国を離れ、信長が斎藤道三(どうさん)を攻めたとき仕官。1574年(天正2)、伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっこういっき)の平定後に、長島城主となる。82年甲州遠征の先鋒(せんぽう)となり、その功により上野(こうずけ)国(群馬県)および信濃(しなの)国(長野県)佐久(さく)・小県(ちいさがた)の二郡を与えられ、関(かん)八州を守り、上野厩橋(うまやばし)(前橋市)城主となる。本能寺の変後に北条(ほうじょう)氏直と神流川(かんながわ)に戦い敗れ、本領伊勢に帰る。翌年神戸信孝(かんべのぶたか)、柴田勝家(しばたかついえ)と同盟して、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉と争うが、降伏。84年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで徳川家康に敗れる。越前(えちぜん)大野(福井県大野市)に引退。茶道の造詣(ぞうけい)が深い。
[奥野高広]
『奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1969・角川書店)』
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…1582年12月秀吉は越前北ノ庄の勝家が雪で兵を出せないのに乗じて,勝家の属城近江長浜城を攻略,勝家と結んだ岐阜城の信孝を下した。翌年正月勝家と結んだ滝川一益が伊勢で挙兵したので,秀吉は信雄と結んで攻撃した。勝家は雪どけを待って佐久間盛政を先発させ,北国街道の柳ヶ瀬に陣した。…
※「滝川一益」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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