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滝川一益 たきがわかずます

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

滝川一益
たきがわかずます

[生]大永5(1525).近江,大原
[没]天正14(1586).9.9. 越前,大野
安土桃山時代の武将。左近将監と称する。織田信長に仕え,天正2 (1574) 年伊勢の長島一揆を平定,長島城主となった。同 10年武田氏滅亡により上野厩橋城主となったが,本能寺の変後,北条氏に敗れ,長島に帰る。

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デジタル大辞泉の解説

たきがわ‐かずます〔たきがは‐〕【滝川一益】

[1525~1586]安土桃山時代の武将。近江(おうみ)の人。名は彦右衛門織田信長の臣として伊勢の長島城主。次いで関東管領として上野(こうずけ)の厩橋(うまやばし)城主。小牧・長久手の戦い徳川家康に敗れて出家した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

滝川一益 たきがわ-かずます

1525-1586 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)5年生まれ。織田信長につかえ,伊勢(いせ)(三重県)長島一揆の平定後,長島城主となる。本能寺の変後,柴田勝家とともに豊臣秀吉に対抗したが降伏。天正(てんしょう)12年小牧・長久手(ながくて)の戦いで秀吉側につくが,徳川家康に敗れて越前(えちぜん)(福井県)大野に引退。天正14年9月9日死去。62歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。通称は彦右衛門,左近将監(しょうげん)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

滝川一益

没年:天正14.9.9(1586.10.21)
生年:大永5(1525)
戦国・安土桃山時代の武将。近江の滝川一勝の子。通称は彦右衛門,左近将監で,受領名伊予守を称したこともある。織田信長に仕え,伊勢・伊賀攻めに活躍,織田信雄のもとで伊勢国司北畠氏との戦に戦功をあげ,永禄12(1569)年には大河内城攻撃の功によって北伊勢5郡を与えられている。その後,伊勢長島一向一揆との戦においても織田軍の中心となり,一揆を全滅させたあと長島城主となった。伊勢水軍を配下に置いたため水軍の将としても活躍する。天正10(1582)年の武田勝頼攻めのときの功により,上野国と信濃国のうち佐久郡,小県郡を与えられ,厩橋城の城主となり,同時に関東管領を命ぜられる。そのとき,信長から褒美としてもらえると期待していた珠光小茄子(茶入れ)がもらえず,「茶の湯の冥加もつき果てた」と茶の湯仲間に手紙で伝えたことは有名。その直後,本能寺の変がおこり信長が殺されると,それまで信長サイドで動いていた北条氏政・氏直父子が上野の奪回に動き出し,武蔵・上野の国境を流れる神流川で両軍の戦いがおこり,一益は完敗して本領の伊勢長島に逃げ帰った。結果的にはこの行為がその後の一益の一生を決めたことになる。信長の後継者を決める清洲会議に一益は出席できず,この席上豊臣秀吉と対立した柴田勝家と共同行動をとることになったが,勝家が賤ケ岳の戦で敗れ,織田信孝も自刃させられたあと,北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏。秀吉は一益の子一時に1万2000石を与えて家督を継がせている。

(小和田哲男)

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世界大百科事典 第2版の解説

たきがわかずます【滝川一益】

1525‐86(大永5‐天正14)
織豊期の武将。左近将監と称する。河内国出身で幼年から鉄砲を稽古し,織田信秀斎藤道三を攻めたとき信長に仕えたと伝えるが,1556年(弘治2),57年ごろに信長が尾張津島の堀田道空の庭で踊を張行したときには有力部将とともに名を連ねている。67年(永禄10)春には北伊勢攻略にあたり,69年8月からの大規模な中南勢攻略には中核として働き,安濃津(津)に居城し伊勢湾を管した。73年(天正1)の長島一揆攻撃では伊勢矢田城に入城,翌年7月の一斉攻撃には海上からの攻撃に当たっている。

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大辞林 第三版の解説

たきがわかずます【滝川一益】

1525~1586) 安土桃山時代の武将。近江の人。織田信長の臣。一向一揆平定の功により伊勢長島城主。信長死後豊臣秀吉と対立、敗れて臣に下った。小牧・長久手の戦いで家康に敗れ、剃髪。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

滝川一益
たきがわかずます
(1525―1586)

安土(あづち)桃山時代の武将。織田信長の老臣。左近将監(さこんのしょうげん)。号は不干。滝川氏は紀氏の一族、河内高安荘司(かわちたかやすのしょうじ)。近江(おうみ)(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼年から鉄砲を稽古(けいこ)した。一族の高安某を殺害し国を離れ、信長が斎藤道三(どうさん)を攻めたとき仕官。1574年(天正2)、伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっこういっき)の平定後に、長島城主となる。82年甲州遠征の先鋒(せんぽう)となり、その功により上野(こうずけ)国(群馬県)および信濃(しなの)国(長野県)佐久(さく)・小県(ちいさがた)の二郡を与えられ、関(かん)八州を守り、上野厩橋(うまやばし)(前橋市)城主となる。本能寺の変後に北条(ほうじょう)氏直と神流川(かんながわ)に戦い敗れ、本領伊勢に帰る。翌年神戸信孝(かんべのぶたか)、柴田勝家(しばたかついえ)と同盟して、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉と争うが、降伏。84年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで徳川家康に敗れる。越前(えちぜん)大野(福井県大野市)に引退。茶道の造詣(ぞうけい)が深い。[奥野高広]
『奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1969・角川書店)』

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世界大百科事典内の滝川一益の言及

【賤ヶ岳の戦】より

…1582年12月秀吉は越前北ノ庄の勝家が雪で兵を出せないのに乗じて,勝家の属城近江長浜城を攻略,勝家と結んだ岐阜城の信孝を下した。翌年正月勝家と結んだ滝川一益が伊勢で挙兵したので,秀吉は信雄と結んで攻撃した。勝家は雪どけを待って佐久間盛政を先発させ,北国街道の柳ヶ瀬に陣した。…

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