日本大百科全書(ニッポニカ) 「十二世紀ルネサンス」の意味・わかりやすい解説
十二世紀ルネサンス
じゅうにせいきるねさんす
Renaissance of the 12th century
12世紀ヨーロッパにおける古典古代の学芸の復興を目ざす文化運動。アメリカの中世史家ハスキンズCharles Homer Haskins(1870―1937)が1927年に出版した、これと同名の著書をきっかけとして定着した歴史概念である。
14~16世紀のイタリアを中心とするいわゆる「ルネサンス」(イタリア・ルネサンス)と同種の文化運動がすでに中世において現象したとする見方は、ハスキンズ以前にもある。彼の著書が出た年の前年にも、H・ナウマンの著作『カロリング朝およびオットー朝ルネサンス』が公刊されている。しかし、これら「複数のルネサンス」は総じて、「暗黒の中世」を背景とする「早咲きの」ルネサンスであったと理解されていた。ハスキンズの見解の革新的意義は、この種の理解の枠組みを打ち破り、「イタリア・ルネサンス」と「十二世紀ルネサンス」という「二つのルネサンス」を想定し、「暗黒の中世」に「晴朗のルネサンス」を対置する従来の考え方の近代主義的偏向に反省を促し、中世文化から近代文化への連続的な展開のうちに「二つのルネサンス」を、ひいては「いくつものルネサンス」を置いてみせたところにある。ハスキンズ自身がその著書の序文で述べているように、たとえばロマネスク、ゴシック様式の宗教美術、あるいはオック語叙情詩やアングロ・ノルマン語の騎士道物語を、古典古代文化の復興現象として説明しようとしてもうまくいかない。そこにはより内発的なものがあって、これを説明するには、11、12世紀の創成の時代、ヨーロッパ内陸社会そのものが一つの独特のタイプの社会として確立されていく全体の動きの脈絡を問わなければならない。したがって中世文化のほうが優位の概念であるとも考えられ、古典古代文化の復興運動は、12世紀ヨーロッパ文化全体のうちに包摂されるべき部分であって、それだけが独立した文化であったわけではない。
9世紀のカロリング王家や10世紀のドイツ・ザクセン王家(オットー朝)による学芸振興は、中世社会が自己の文化を創造するにあたって古典古代に範を求めるという一つの方向性を示した。11世紀後半、周辺民族の侵入が停止し、ようやく充実期に入ったヨーロッパ内陸社会は、逆に対外進出の動きに出る。すなわち、スペインにおけるレコンキスタ(国土回復戦争)、ノルマン騎士によるシチリア(シシリー)島の征服(12世紀に入っての両シチリア王国の形成)およびシリア・パレスチナ十字軍などの活動である。ここにイスラム世界およびビザンティン文化圏との接触が密になった。人文学と自然学(人文七科)や法学(ローマ法と教会法)の研究教育のプログラムは、すでにカロリング朝ルネサンスにおいて提唱されたものであったが、古典古代の著述が断片的にしか残っていなかった当時においては、いわば慢性的な貧血症状を呈していた。それでも11世紀に入れば、ノルマンディーのベック・エルーアン、フランスのシャルトルなどの教会、修道院の付属学校がようやく知的センターの役割を果たすようになり、やがてパリ大学、ボローニャ大学にその座を譲る。イスラム文明は、すでにビザンティン文明を介して古代ギリシア・ローマの学芸を貪欲(どんよく)に摂取していた。古典古代の著述がアラビア語文献の形に現象し、ヨーロッパの知的渇きをいやす。その際、スペインのトレド、シチリアのパレルモが受容の窓口となった。北イタリアの港町とコンスタンティノープルとの間に恒常的な航路が設定された。
12世紀に入り、ボローニャにおけるローマ法の研究は、アレネリウス、グラティアヌスらの学者を迎えて、一段と展開した。また、イングランドのバスのアデラードがエウクレイデス(ユークリッド)の『幾何学原本(ストイケイア)』をラテン語に訳す。さらに、ベネチアのジャコモがアリストテレスの諸書のラテン語訳をつくり、カリンティアのヘルマンがクリュニー修道院長ピエールの委嘱を受けて、コーランのラテン語訳を完成する。これら12世紀前半の先駆者たちの業績を踏まえて、同世紀後半、プトレマイオスの『アルマゲスト』をはじめ、アリストテレス、ガレノス、イブン・シーナー(アビケンナ)ら多彩な顔ぶれのギリシア、ローマ、アラビアの諸文献がラテン語に翻訳された。パリ大学をはじめとする大学の創立はこの気運を背景としていたのであり、同時にまたそれら諸大学は、従来の教会、修道院付属学校にかわって、この気運をさらにいっそうもり立てる仕掛けとして機能したのである。
[堀越孝一]
『ホイジンガ著、里見元一郎訳『文化史の課題』(1965・東海大学出版会)』▽『掘越孝一著『回想のヨーロッパ中世』(1981・三省堂)』